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「本」と「ゆきのうえ」の のどかな日々

2002.6.21

 駅前のお気に入りの古本屋さんに行ったら、私の好きだったあの棚が、一面いやらしい雑誌になっていて、ショック。お店の人に抗議しようかとも思ったけれど、ぐっとこらえた。見たところ「バイトの人」という感じだったし、「私の棚をどこへやったんだ」とも言えないし。打ちのめされた気持ちで目に付いた本をかたっぱしから抱え込んでレジに運んだら、お店の人はちょっと呆れた顔をしていた。
 そのやけくその勢いで買ったものの中の一冊が、長島有「猛スピードで母は」(文藝春秋)。リズミカルな文章で、一気に読ませてくれたんだけど、うーん、何だか‥‥。芥川賞受賞の表題作と、文学界新人賞のもう1作がおさめられていて、どちらも逸脱した家族の姿を描いているのだが、それ自体がもう、吉本ばななの「キッチン」を筆頭に、ここ10年の映画や小説で繰り返し描かれてきたものという感じで、そういう意味では、ごく安心して読める小説なのであり、まさに芥川賞にふさわしいのかもしれない。細部の描写は、さすがによく書けているのだが、そこにも、「文学」というよりむしろ「マーケティング」の匂いを感じてしまう。
 でも、タイトルと、表紙の佐野洋子の絵は、すごく気に入った。


2002.6.19

 プレヴェール「愛の詩集」(飯塚書店)。この古い一冊の本のなかに広がる世界は、低い視点で世の中を見ること、素直な心でものごとを感じること、本当に優しい心が持つ、柔らかな光の輝きのようなものを教えてくれる。
古いフランス映画を観ているようだと思いながら読んでいたら、この詩人が、「霧の波止場」や「天井桟敷の人々」の映画の戯曲を書いた人だと訳者(嶋岡晨)の解説にあった。
プレヴェールは1900年生まれ。死んだ私のお祖父ちゃんと同い年だ。


2002.6.14

 「深層生活」(早川書房)。モラヴィアの最晩年の作らしい。売春婦の娘として生まれた少女が、養母に誘惑されたりといっためちゃくちゃな環境に育って、19才のときにテロリストになるお話。68年の学生運動を背景として書かれた、と訳者の後書きにあったが、荒唐無稽なストーリーでもある反面、すごくステレオタイプな青春のあり方にも思える。いろんなセックスの場面が全編にちりばめられているのに、徹底して快楽的ではないという意味で珍しい小説。小説のディテイルには古くささを感じる部分も多々あったけれど、作家の気迫勝ち、私の負けです。


2002.6.7

 江川達也「〈全身漫画〉家」(光文社新書)。漫画のことも、この人のことも、詳しくは知らないけれど、なかなかに興味深く読んだ。子どもの頃のことから、最近作までのことを語ったものなのだが、読んでいていちばん強く思ったのは、こんなふうな物語への欲望をストレートに語る言葉に触れるのは久しぶりだ、ということだ。
 話はずれるけれど、この間テレビで大阪の池田小学校で子どもを殺された親のインタビューをやっているのを観た。事件のあと親たちが望んだことは、自分の子どもがどのように殺されたのかをできるだけ詳しく知りたい、ということだったそうだ。現場に教師のいたクラスの子どもたちのことは、教師の証言からわかったが、教師がいなくて子ども達だけだったクラスでは、証言する人がいない。そこで警察は、床や壁に流れた大量の血をDNA鑑定で特定し、それぞれの子ども達が教室のどこで刺されて、どこで命尽きたのかを割り出していったのだという。この調査によって、自分の娘が教室で刺されたあと、血を流しながらも助けを求めて懸命に廊下を数十メートルも歩いて行った事を知った父親は、インタビューに答えて、涙が止まらなかったけれど、それを知ることによって、娘も頑張ったのだから自分も頑張らなくてはいけない、とひとつ前へと踏み出すことができたと語っていた。ちょっと考えると、自分の娘の死という辛い現実に加えて、そのような凄惨な現場は知りたがらないのではないかとも思える。けれど、何か経験したことのないような出来事に出会ったとき、人には必ず「物語」が必要なのだと思い直した。私たちは、「物語」が宿命的に持ってしまうある種の陳腐さを避けようとするあまり、「物語」をないがしろにしすぎてきたのではないか‥‥そんなことを思った。


2002.6.3

 インテリアショップの片隅で打ち捨てられるように山積みになっていた、洋書のバーゲンセールの中から探し当てた一冊、フリーダ・カーロの画集。500円だった。彼女の一生を解説した、かなり長い文章もあるが、まずは、絵だけを眺め渡していく。そして、「私のすべてがここにある」と思ってしまう。なぜだろう、彼女は私とは似ても似つかぬ人なのに。死んだ胎児も、ちぎれた心臓も、髪につけた花飾りも、ドレスのレースさえも、全部が私自身だという思いが私のなかに広がっていく。最初期から最晩年までの作品が網羅されていて、初めて観る絵も多かった。彼女が元気に歩いている姿の写真も、初めて観た。


2002.5.27

 そういうわけで、スティーウン・キング「小説作法」(アーティストハウス)を衝動的に手にとってしまう。読んで楽しいことに関してはさすが、である。7才のときに作った物語を4本で1ドルという値段で母親が買ってくれたことなど、小さい頃の思い出の数々から、最近の交通事故による大けがの顛末まで、どのエピソードも興味深く、説得力がある。小説とか創作といったものから、もってまわった哲学や、思わせぶりな技術論を取り除きながら語る姿は、少なくとも、フェアな姿勢だと思う。「受身形はできるだけ使うな」といったアドバイスも、ごく実際的だ。「言葉には魂がある」なんて言葉より、よっぽど私の好みである。
 ただし、翻訳には気になる部分が少々あった。まあ、私が「キングの文章はこうあってほしい」と思うイメージから隔たっている、というだけのことなのだが、いくら悪文の例として挙げたとはいえ、「That's so cool」を「すっごくいかす」だなんて、それはないんじゃないか、と思ってしまう。


2002.5.24

 小説家が書く「小説作法」的な本は、たとえ「ちょっとくだらないんじゃないか」と思えるような内容であっても、舞台裏を覗く楽しさというものがあって大抵は許せてしまうのだが、河野多恵子「小説の秘密をめぐる十二章」(文藝春秋)にはそれさえもなく、本の帯にあった言葉を信じるなら、このようなものが「話題沸騰」となる(文芸誌名として、そして、言葉通りの意味としての)「文学界」という所は、いったいいかなる世界なのかと、暗澹とした気分になるのを押さえることができない。この本を読んで「なるほど」と思ってしまうような小説家の書いた本をまちがって買ってしまうような不運に見舞われないことだけを祈ってしまう。
だって、ねえ、「よい文章は健康な脈はくを打つ」なんて言葉からは何も伝わってこないし、「登場人物の名前は珍しすぎず、ありふれず」なんて言われても、そんなフラットな記号性のなかに生きているのだったら、小説家も小説家でない人も、私もあなたも、苦労はないと(同時に生きていることの興奮もないと)思うのだが。


2002.5.23

 須賀敦子の「遠い朝の本たち」(ちくま文庫)を久しぶりに読み返す。「必読書150」を読んだあとでは、口のなかでふわりと溶けるあまい砂糖菓子を食べているみたいな、ちょっと心細いような気持ちになった。それでも、文章は申し分なく心地よく流れ、読み終わったあとは、本と出会ったころのなつかしい思い出に、しばしひたることができた。


2002.5.20

 「必読書150」(太田出版)。この本を買う人のほとんどは、タイトルと作者の名前は歴史や文学史の教科書などで見覚えがあっても、読んだことなどあるはずもないような本が並んでいて呆然とするのだろう(もちろん、私も)。でも、私が思うにむしろ呆然とすべきことは、「バカを甘やかさない」という一貫した姿勢を貫いていた(俗に柄谷一派と言われる、これらの)著者陣が、この本では読者にたいして異例の手心を加えていることに対してだ。あとがきで奥泉光が「このリストを見て呆然となることこそが、教養のはじまりなのだ」と書いているのを読んだりすると、今まで彼らの本を読んでは、己の無教養、無能さを串刺しにされつつ、脳味噌をかき回される快感にひたってきた私は、不条理な裏切りにあったような、がっくりと崩れ落ちるような気持ちにさせられる。
彼らはまちがいなく、(彼らの言葉を借りるなら、局地戦から陣地戦へと)作戦を変更したのだと思う。その表明を読みとらなくては、このガイドブックは、半分しか役に立たない。


 


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