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「本」と「ゆきのうえ」の のどかな日々

2002.7.25

 正直言って、池澤夏樹という作家は、いくつかの作品を読んでも、あまり相性のよくない感じだけが残る、苦手な作家だった。でも初めて素直な気持ちで楽しめた本がこれ、「ハワイイ紀行」。文庫版のあとがきには「今にして思えば『ハワイイ紀行』は、取材と執筆が楽しくて、本になってからもなかなか評判がいいという、嬉しい仕事だった」とあって、「ああ、きっとそうなのだろうな」と思える本だった。池澤夏樹がなぜ、南島に惹かれるのか――その理由がなかなか伝わってこないのが、今までのわだかまりの最大の原因だったのだけれど、読み終わった時に、この作家の目に映る海や、感じる潮風を私も感じることができたような気がして、胸につかえていたものがすっと消えるような気持ちさえした。
 というわけで、この本を持って、ハワイへ出かけることにしました。それじゃ、ちょっといってきます。


2002.7.21

 食わず嫌いの作家というのは誰にでもいると思うけれど、その作家のものを一度読んでみようと思ったとき、遺作から読み始めるというのが、正しい態度かどうかはわからないが、とにかく開高健の「珠玉」(文春文庫)を読んだ。
 今まで勝手に貼り付けていた「ヘミングウェイもどき」という大きなレッテルを「ごめんなさい」と言いながら剥がさなくては、と思いながら読み進めた前半は、文体が骨太でスピード感があり、感情の動きがストレートにこちらに伝わってくる。力強く引っ張られる、その腕力は久しぶりに感じる小説の楽しさだった。ところが後半になって酒と女の描写が出てくると、おやじ趣味炸裂で、「あーあ」とうなだれてしまう。だって本当に「あーあ」という感じだったんだもん。


2002.7.17

 河野多恵子「半所有者」(新潮社)。これは、前作「秘事」にたいして、川上弘美で言えば「センセイの鞄」にたいする「パレード」のような存在の作品の短編。こういうのって、何だか嬉しい。
 読みながら、小説中で主人公が「彼は」と呼ばれるとき、その「彼」という言葉の無色透明なのが新鮮だった。最近の小説を読むと、主人公を指す「彼」「彼女」「わたし」という言葉にあらかじめ色がついていて、それを個性、というか価値のように受け取る傾向があって、私も知らずにその感覚になじんでいたのだが、この本を読んで、このニュートラルさが小説の本来だよね、とひとりうなずきながら読んだ。
 ちまたにあふれる白くて瀟洒な装丁には目もくれず、ある種の古っぽさを堂々と出しながら、でもそれが内容としっくりと合っている本のつくりも、大変好もしかった。


2002.7.10

 川上弘美「パレード」(平凡社)。この間読んだ「センセイの鞄」の番外編。本を閉じたあとに、その後の主人公のことに思いを巡らしたり、物語に出てきた風景をディテイルまで想像してみたり、そんな読者の楽しみを作家がかっさらってしまった、そんな本。
 造本も、ところどころにはさみこまれるイラストも、文字の感じも、心にくいほどにセンス良くまとめられている(装丁/装画 吉富貴子 と、クレジットされている)。ただ、行の頭にくるカギかっこの位置が普通でない、というかすごく変わっていて(普通の人は気が付かないのかもしれないけれど)、読んでいる間中ずっと、まぶたの裏側がかゆくなるような感じがしてしまった。これはわざとやったんだよね? どうして、こういうふうにしたんだろう? 誰か教えて。


2002.7.08

 久しぶりのアップダイク。「美しき夫たち」(筑摩書房)。短編集。ロマンティズムとシニシズムがほどよくブレンドされた格調の高い飲み物を、毎晩寝る前に1杯ずつ飲んでゆく贅沢さ。


2002.7.5

 アゴタ・クリストフ「悪童日記」(早川epi文庫)。双子の少年が主人公のブラックヒーローもの。背後にあるのは、戦争、飢え、悪、人間。読んだ人はみな夢中になる、そのわけがわかった。私も、この双子がこの先どうなっていくか知りたくてたまらない。
 訳者による、ていねいで気持ちのこもった解説がよい。この作品はそもそも、ひとりでこつこつと書き上げたアゴタ・クリストフが、いきなりガリマール、スイユ、グラッセの三社に送りつけて、唯一価値をみとめたスイユ社から出版され、長い時間をかけて口コミでベストセラーに成長していったのだそうだ。しかも、邦訳版も、作者本人からいきなり早川書房に郵便で持ち込まれた話が実現したものだそうで、そんな裏話も、作品の魅力を増幅してくれる。今自分の手にしている本が、さまざまな幸運や不運を生き延びて、周囲の人を巻き込み、愛を受けながら、今この私の手にあるのだと知ること以上に、読者の歓びというものはない。


2002.7.2

 高野文子「黄色い本」(講談社)。「ジャック・チボーという名の友人」というサブタイトルがついている。十代のころ、本のなかに起きていることと現実の境目がどろどろと溶け出すような読書をしていたころ、そのような本の読み方しかできなかったころのことを鮮やかに思い出させる本。
「まるで文学のようである」という言葉が、漫画にとって誉め言葉なのか、けなし言葉なのかはわからないけれど、とにかく、そのように感じた。この漫画には確かに文体があると思う。


2002.6.30

 ユルスナール「火 散文詩風短編集」(白水社)。ユルスナールは、私にとってずっと、手強い作家だ。この本は神話をモチーフにかりた恋愛の物語、いや、恋愛の宣言といった方が正しいかもしれない。ユルスナールの持つペンは他の誰のものよりも太く、そのインクも誰のものよりも濃い。そこから骨が太く、ボリュームのある、でも意外と柔らかな、鍛えられた筋肉のついた言葉が生み出される。こんな女性と恋をしたら、私は3日で憔悴しきってしまいそうだ。でも、訳者の多田智満子と装画の野中ユリは、互角の勝負に持ち込んでいる。さすが。


2002.6.28

 ジャック・レダ「パリの廃墟」(みすず書房)。散文詩、というよりはやはりエッセイなのだが、パリの何気ない日常風景のスケッチが濃密な文章で綴られていく。こういう感想がまったく的はずれなことはわかっているけれど、読んでいて、これらの文章は堀江敏幸に訳されるために書かれたのではないか、という気持ちになってしまう。ごちそうを食べるような気持ちで、本文もおいしく読んだけれど、巻末の訳者あとがきも、私にとってはメインディッシュ以上の価値のあるデザートだった。
 私はパリに行ったことがなく、いつになっても遠い場所だ。「パリ」という言葉と「廃墟」という言葉の組み合わせが生むそぐわなさの度合いは、だから、想像するしかない。でも、「東京」と「廃墟」の方が、ずっと親しい間柄のように思う。こんなふうに東京のことを書いた作家がいただろうかと思い返してみるが、うまく思いつけない。諏訪優あたりが近い感じがした。


2002.6.26

 マルケス「青い犬の目」(福武文庫)。こちらも「100年の孤独」が書かれる前、まだ若かった頃の短編集で、川端と同じく、おさめられている11の作品すべてのテーマが「死」になっている。でも川端のような鬱屈したエネルギーは感じさせず、むしろ、豊穣な物語のもつ広がりがある。川端にしろ、マルケスにしろ、みんな小説が上手で参ってしまう。


2002.6.24

 続いて川端康成「水晶幻想・禽獣」(講談社学芸文庫)。8篇の初期短編。どれも隅々にまで死のイメージで覆いつくされている。獰猛な言葉たち。大正14年26才から昭和9年35才までに書かれた作品たち。そして昭和10年に「雪国」が発表されるのである。これはこの本の解説(高橋英夫)に書いてあったことだけれども、トンネルを抜けたらそこは雪国で、夜の底が暗くなった、とあるのは、この短編に描かれていたような世界からの脱出のことを言っていたのか、と腑に落ちるものがあった。死のイメージの世界から明るい生のイメージへと身をひるがえしていった作家を、他にもたくさん知っているような気がする。


2002.6.23

 川端康成「古都」(新潮文庫)。小説を読みながら京都の名所めぐり。名産品や祇園祭も出てきて、情報は古いけれど、下手なガイドブックよりいいかもしれない。私が読んだのは昭和43年版の古い文庫本で、カバーの宣伝文句には「流麗な筆致で描く美しい長編小説」とあるが、川端による「あとがき」には、この小説が新聞に連載されている間ずっと睡眠薬中毒でヘロヘロだったので、何を書いたんだか自分でもよく覚えてない、なんてことが書いてある。こんなふうに臆面もなく書くなんて、ほんとにぶっとんだ人だったんだな、と笑ってしまった。


 


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