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「本」と「ゆきのうえ」の のどかな日々

2003.8.12

 華雪という篆刻作家の「石の遊び」(平凡社)。この人は若い書家でもある。この人の篆刻作品集は持っていて、とても気に入っていたが、この本は篆刻と文章。文章が、何だかとてもいい。新しいものに出会った気にさせられる。
 そのなかに、妻が枇杷の皮をむいて病身の夫に食べさせてあげる、という場面を、ある随筆から引用している部分があって、これを読んだ瞬間、「あ、武田百合子の随筆だな」と思った。華雪という見ず知らずの人と同じ文章に感動したことの発見は、私をちょっぴり嬉しい気分にさせた。
 今年も何度か琵琶を食べたが、そのたびに、枇杷という果物をうらやんでしまったりする。武田百合子の、あの随筆の存在ゆえに。


2003.8.9

 都会育ちの子どもにとって、こどもの頃いちばん身近な虫は、セミでもカブトムシでもなく、だんぜんアリとダンゴムシにちがいない。しゃがんだままで移動しながらアリの列をたどったことのない人、ダンゴムシをてのひらの上でクルンとしたことのない人って、いるのかしらと思ってしまう。
 何で今までなかったんだろう(あったのかもしれないけれど)と思ってしまう「ダンゴムシ」(アリス館)。写真家の今森光彦が、ダンゴムシに興味を持って、ダンゴムシを探し出して、観察して、撮影して、というストーリーがそのままに書いてあるので、そのまま素直に楽しめる。写真も迫力があって、いきいきとしている。生まれたばかりのダンゴムシの美しさには、感動。


2003.7.22

 事典的に使おうという気持ちはさらさらなくて、読み物として買った「サロン・ドット・コム 現代英語作家ガイド」(研究社)。アメリカの総合雑誌的なオンラインマガジン「salon.com」の本のコーナーから、アメリカの小説家批評の部分を取りだし集めたものだというのだが、その批評のクオリティが高くてびっくりする。どれも、時には情熱的に評価するし、時には「そこまで言っていいの?」というくらい辛辣。アリス・ウォーカーなんか、けちょんけちょんだしね。
 でも監訳者の柴田元幸が指摘している通り、個人的な思いが語られているようには見えても、ほとんどの場合、それらはあるレベルの妥当性・普遍性を持っていて、評者が真剣にその作家と作品に向き合った結果なのだということが伝わってくる。もちろん私なんか知らない作家のほうが多いけれど、あちらこちらをめくって読むと、知っている作家知らない作家、それぞれに楽しい。
 それから書き下ろしの項もいくつかあって、村上春樹の書いた「サリンジャー」は、なかなか鋭くておもしろい。
 ところで、書店でこの本をレジに持っていったら、店員が「おまけがつきます」と言って、うすいリーフレットを挟み込んでくれた。それは柴田元幸のエッセイだったんだけれど、何となくかつて彼のエッセイでかつて読んだもの、という内容で、無料とは言えちょっとがっかり。柴田ファンは嬉しいのかもしれないけれど。それにしてもこのリーフレット、販促用なのかどうかわからないし(だって、オマケがつくなんて帯にもどこにも書いてなくて、買ってから知らされるのだから、意味ないじゃない)、サイズも本体の本より中途半端に大きくて、何だか意味不明。せめて本と同じサイズかそれ以下にして本にはさみ込んでおくことができる、っていうくらいの心遣いは欲しかったんだけど。


2003.7.19

 突発的に「ああ、『エミリーにバラを』を読みたい」という思いが湧いてきて、その思いを数日間胸に抱えていたのだが、どうにもがまんできずに古本屋へ行くと、私のことを待っていたかのように、古い新潮文庫の「フォークナー短編集」が棚にささっていた。龍口直太郎の翻訳については、フォークナーの件だけじゃなく、カポーティーのこととかいろいろ言いたいこともあるけれど、でもエミリーを読めたので、そして、心に描いていた通りのフォークナーだったので満足。この小さな作品をなぜだか自分が気に入っていることを再確認。
 私は、古本屋の店先に投げ捨てられたように置いてある100円の文庫本をよく買うのだけれど、考えてみれば100円でこれだけの満足感を与えてくれるものって、ちょっとほかにはあんまりないような気がする。(タダのものだったら、無数にあるけどね。)
 古本屋では、この他に何冊かの本を買った。わりと最近できた、小さな古本屋。木製の棚がまだ白く光っている。「赤い鰊」という店名はどういう意味だろう、と思っていたら(「鰊」を「にしん」だと確信するまでに10秒くらいかかったし)、たまたま立ち読みした雑誌にこのお店が紹介されていて、店名の意味もちゃんと説明してあった。なるほど。


2003.7.12

 ね、やっぱり、どうしたって気になってしまうでしょ? で、買ってしまった「サリンジャー戦記」(文春新書)。前半は村上春樹と柴田元幸の対談。サリンジャーの翻訳と「海辺のカフカ」の話。こちらは、私はあまり興味を引かれなかったが、「ライ麦畑」については、いつも、読者の話や「読まれ方」の話ばかりで作品自体がちゃんと論じられることが少ないのではないかという指摘には納得させられるものがあった。それから、村上春樹が言ってたのだけれど、「カフカ」のなかで猫を残酷に殺すシーンを書いたら、読者からいっぱい抗議が来たそうだ。このエピソードには、ちょっと驚いた。そうか、村上春樹は、そういう読まれ方をしているのか。そういう抗議をする人は、この「キャッチャー」を読んで、どんなことを感じるのだろう。
 後半に収められた「キャッチャー・イン・ザ・ライ」に載せる予定だった「訳者解説」は、よくまとまっていたし、ためになった。何しろサリンジャーについては、知っているようで、よく知らなかったし。最後には柴田元幸のちょっと趣向を凝らした文章もあって、形としてはパロディだけれど、内容は非常にまっとうなサリンジャー論になっていると思えた。


2003.7.9

 私も、サリンジャー、イコール野崎孝の翻訳というクチだったから、この白い表紙の本が本屋さんでしつこいくらいに並んでいてもなかなか手に取れなかった。でも、とうとう、というか、やっぱり読んでみました。「キャッチャー・イン・ザ・ライ」(白水社)。
 高校生くらいに読んだときは「ライ麦畑でつかまえて」というタイトルの持つ甘い口調と内容がずいぶん違ってとまどったのを覚えている。たった一晩の話なのに場面がくるくる変わるし、ホールデンはしゃべり続けているし、読み終わって何だかひどく疲れた気分だった。第一に「ライ麦畑」っていうのが、よくわからない。当時の私には、ライ麦畑って言ったら、「大草原の小さな家」みたいな情景がぼんやりと浮かんで来るだけだった。
 どこまでが翻訳の違いで、どこまでが私自身の変化なのかわからないが、今回は、この小説は、ひたすら暗く陰惨に感じられた。ここに描かれているのは、よく言われるような「若さ」や「イノセンス」ではなく、ほとんど「死」ではないかと思われ、ひたすら胸が痛んだ。
 小説として出来がいいのかと問われれば何と答えるべきかわからないけれど、何かとても作者の深い所からこの小説が生まれてきたという凄みみたいなものがあって、それが多くの読者を引きつけるのだと思う。でもこの小説を「好き」だなんて、おいそれとは言えない、という気持ちの方が強くなった。
 最後の最後に「予定されていた訳者の解説はサリンジャーの了解が得られなくて掲載できませんでした」と記されていたのが、なかなか味のあるオマケではあった。


2003.7.1

 片山令子。この人の絵本で大好きなのはたくさんあるが、詩を書いているなんて知らなかった。ちょっと驚きながら読み始めた。どれも、とても素敵な詩だった。詩人の息づかいが聞こえる、なんて常套句中の常套句だけれど、いま、これ以外にいい言葉が見つからない。「夏のかんむり」というタイトル通り、夏によく似合う詩集だと思った(装画はもちろん、片山健)。
 新刊書店で手にしたこの一冊は、村松書館という出版社から1988年に出たもの。この邂逅には、やはり素直に感謝しなくてはいけない。


2003.6.21

 東浩紀と笠井潔の往復書簡集「動物化する世界の中で」(集英社新書)。「全共闘以降の日本、ポストモダン以降の批評」とサブタイトルがついている。集英社のホームページでリアルタイムで公開されていて、途中でふたりが喧嘩を始めたので、かなり話題になっていたらしい。全然知らなかったけれど。
 私は、心情的に(「思想的に」もしくは「世代的に」と言いたいところだけれど、この表現は正確じゃないので、やめておこう)東サイドだし、笠井世代の人が多くもっている「あの感じ」には常に違和感を持っていたので、この違和感の正体が何なのかこの本で少し解明されるような気がして、読み始めた。「あの感じ」というのは、何と言ったらいいのかな、プライドの持ち方、屈折の仕方、論理の組み立て方の癖、ナスシシズム、怨念、饒舌さ、独特な言い回し‥‥みたいなもの。こう書き連ねて分かる通り、まあ、私の偏見ですが。
 でも読み進むにつれて、彼らの衝突の原因はそんな所にはなく、要するに笠井氏が自分の話しかしないので東氏があきれてしまった、という事ではないかと思い至り、ちょっとがっかりしたもしたのだが、それでもふだん気になっていたいくつかのテーマが指摘されていたので興味深かった。それらの問題が私個人の胸の内でフツフツしているばかりのものではなく、現代という時代である程度必然的に生じたものだという事を知り(というか、そういう問題意識を持っているのが自分ひとりじゃないと知って)、ちょっと嬉しかったりもした。
 東浩紀が推薦する、新しい世代の小説やSFを少し読んでみようかな、という気にもなった。オタクにたいする私の偏見は、団塊世代へのそれよりは数段少ないとはいえ、まだいくつかのハードルがあるのだ。


2003.6.12

 村上春樹「若い読者のための短編小説案内」(文藝春秋)。ずっと以前読みかけて、話し言葉のような、そうでないような文体にどうもなじめず、途中でやめてしまっていた一冊。でも今回は楽しく読むことができた。
 ここで取り上げられている第三の新人たちは、私にとってなじみがあるようでいて、意外と読んでいなかったりする。村上春樹が日本の文学については発言しているのはあまり聞いた(読んだ)ことがないけれど、この本を読んで、村上春樹が彼らに惹かれる理由が、よくわかるような気がした。また、村上があくまで小説家の視点で見ているポイントも、ところどころ、おもしろかった。
 いちばん心に残ったのは、村上春樹がテキストになっている作品を、何度も何度も繰り返し読みなさい、と言っているところ。私たちは小説を語るとき、小説そのものではなく、作家や読者を語ることが多すぎる。そういった情報をまるっきり取り去って純粋な気持ちで読むのが正しい、と言う気もないけれどね。そういった小説の付属物的情報を極力減らしつつ、何度も何度も繰り返し作品を読み込んだ、学校の国語の授業が、きっと私は嫌いではなかったのだと思う。そして、そういう読み方をまたしたい、という気持ちが私のなかにあるのだと思う。


 


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