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「本」と「ゆきのうえ」の のどかな日々
2002.1.25

 「アメリカの鱒釣り」(晶文社)。年に何回か、定期的に本棚からひっぱり出しては、ブローティガンの文章に触れる。しばらく前、ポートランド出身の20代のアメリカ人青年と話していたら「ブローティガンなんて知らない、聞いたこともない」と言われてしまった。当たり前か。でも何となくショック。私にとってのポートランドは、いつもしとしとと細かい雨が降っていて、空気中の湿気一粒一粒が、限界いっぱいのメランコリーをたたえている、そんな特別な場所なのに。
訳者あとがきには、ブローティガンの作品を読むなら「アメリカの鱒釣り」から、ブローティガンをひとつしか読まないというなら「アメリカの鱒釣り」を、とあって、これは正しいと思った。でも、私は「芝生の復讐」の方が好きかな?


2002.1.18

 「ぜんまい屋の葉書」(金田理恵 筑摩書房)。イギリス製の素人用活版印刷機というのを使って、パーソナルに作られた葉書を集めたもの。ほのぼのと美しい葉書をまとめて見られて嬉しいような、1枚ずつポストから取り出す楽しみを味わえなくて、くやしいような。


2002.1.15

 ウェブスター「あしながおじさん」。7才の時が初めてで、それからもう何度も読み返したのに、そのたびに嬉しい気持ちになる本。今回初めて岩波文庫で読んで、巻末の訳者解説でウェブスターの生涯がわずか30年だったこと、マーク・トウェインの親戚だったことなどを知った。作品中には、ディキンソンや、ジェーン・エア、嵐が丘、スティーブンスンなど、アメリカ文学がたくさん登場する。あしながおじさんの揺れる男心もかいま見えて、おかしい。


2002.1.10

 チョムスキーの「9.11 アメリカに報復する資格はない!」(文藝春秋)を読む。翻訳がまったく体になじまなくて、薄い本なのに、読み終えるまで何日もかかってしまった。ニュアンスがうまく伝わってこず、文意が正確に読みとれない所が多い。「アメリカに報復する資格はない!」という扇情的なサブタイトルにも(とくに「!」の感じが)、内容にそぐわない。何というか、ひとことで言って、チョムスキーのかっこよさが本からまったく伝わってこないんだよな。ため息。


2001.12.30

 最近何かと話題の島尾一家。島尾伸三「月の家族」(晶文社)では「死の棘」に隠されている知られざる真実が暴かれのるかと半分下世話な気持ちで手に取ったが、ゆらゆらと漂うような文体が不思議な感覚でこちらを引っ張り込む。両親の諍いのことは、本文中では深くは触れられないが、それでも、あとがきには「生きていることを恨み、悲しい具合にしか過ごせなかったこの私が自叙伝を書くということがまず間違いなのです」などとある。その身と一体となってしまうほどに親しんできた彼にとっての絶望感は、しかし、両親が子どもの彼に与えた仕打ちのゆえというより、むしろ彼に備わった天与の才のように思えてくる。


2001.12.26

 「大江健三郎・再発見」(集英社)。大江のエッセイ、座談会、シンポジウムの記録などからなる一冊。彼の小説に比べてこの退屈さはどうしたことだろう、と思いながらも、最後まで読んでしまう。いっそのこと純然たる「オフィシャル・ファン・ブック」であれば、まだ楽しめたのに、などとブツブツ言いながら。そもそもタイトルに「・」の含まれている本には、読む前から不信感を持ってしまうのだ。特別な意図のない限り、声に出して読めない言葉をタイトルに入れるのは、絶対に過ちであると私は思う。


2001.12.22

 今野裕一「ペヨトル興亡史」(冬弓社)。解散時のことをリアルタイムで報告していたメールマガジン「解散日記」も楽しみに読んでいたが、新しい内容も加えられ、こうしてまとめて読むと、違った面が見えてくる。私が学生だったころ、ペヨトル工房はトップランナー的な華やかな存在だったので、こんなに地道なビジネスをやっていたとは想像もしなかった。出版や文化をとりまく状況が見えてくるという点で、貴重な本だと思う。


2001.12.21

 現代の歌人をそれほど多く知っているわけではないけれど、石井辰彦の詩には、いつも激しく刺激される。「鬼才」という言葉がぴたりとあてはまる人だ。読むたびに、今さらながらに定型詩の自由さを思い知らされる。詩のあちらこちらに、さまざまなオマージュや暗喩や引用が潜んでいるのが、ある時ははっきりと、ある時は気配でわかる。もっと教養があれば、さらに楽しめるのだろうけれど、私はここまで。


2001.12.20

 「これ、読んでみれば?」と、意味深な素振りで友人が貸してくれた本。倉橋由美子「あたりまえのこと」(朝日新聞社)。遠慮のない口振りにそそられた出だしから、だんだん読み進むにつれて、さまざまな論理の食い違いが目につき出す。とは言っても、「その通り!」と声をあげたくなるような部分も多々あって、ようするに、1行ごとに首を縦に振ったり、横に振ったりしていたので、少々疲れた。
 いずれにしても帯のコピーにあった「心ゆくまで楽しみながら本を読むためのヒントを教えます」という言葉は誤りだと思う。この本を読んでも小説の楽しみ方はわからない。ダメな小説というものがわかるだけだ。さらに倉橋由美子が言っているのは、「本当によい小説を味わうためには、しっかりと生きなくてはいけない」ということだと私には読めた。しっかりと生きるためのヒントなんて、あるわけない。


2001.12.14

 仕事途中のビジネスマンと忙しげに携帯のメールをチェックする学生にはさまれて立つ山手線の車内では、「文学が好き」というタイトルがどうにもいかがわしくて、恥ずかしくて、表紙を隠すようにしながら読む荒川洋治のエッセイ集(旬報社)。とりあげられる作品の選び方にも、ものごとに注がれる眼差しにも、この人だけが作ることのできる核がそなわっていた。けなすべきは、ちゃんとけなしてあって、これにも満足。
 文の芸が達者とかそういうことではなく、獲得した言葉をいったんすべて捨てることを常に自分に課している詩人という人たち(すべてではないのだろうが)には、かなわない。
 群馬県の高崎からバスに乗った畑のまん中に、現代詩の詩集だけの図書館があるという話もあった。行ってみたい。


 


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