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「本」と「ゆきのうえ」の のどかな日々
2002.4.1

 スーザン・ソンタグ「この時代に想うテロへの眼差し」(NTT出版)。昨年のニューヨークでのテロを受けて発表された文章と、サラエヴォで「ゴドーを待ちながら」を上演したときの顛末を記した文章、大江健三郎との往復書簡、そして2つの講演録が収められている。いちばんおもしろかったのは、サラエヴォの話。砲撃と欠乏のなかでのゴドー。それは、私たちにとって「芸術」とは何なのかという問題を浮かび上がらせてくれる。
 スーザン・ソンタグについては、今まで何冊かの本を読んで、「一枚岩な人」というイメージが強くて何となく敬遠していたけれど、この本で私のなかの人間像の幅が広がって、興味をひかれた。
 それにしても、大江健三郎という人は、彼に向き合う人から彼と同じような誠実さと真摯さを引き出すという点で、たいした人だと思う。私たちの彼にたいする態度は、彼のようである(あろうと努力する)か、さもなくば、大江なんて存在しないと知らんぷりを決め込むしかないしかないように思う。


2002.3.30

 「アフガニスタンの仏像は破壊されたのではない 恥辱のあまり崩れ落ちたのだ」(現代企画室)。イランでもっとも人気のある映画監督だというモフセン・マフマルバフが、1時間に12人が戦争や飢餓で死に、60人が難民として他国へ出ていくというアフガンの現状を訴える。映像的で、私たちの感情へせまってくるような文章は、時にこれが詩的な悲劇であるかのような錯覚を起こさせ、そのたびに「これは現実なのだよ」と念を押される。その揺り戻しに、すっかり翻弄される。訳者の功績も大きいだろう。
 食べ物がなくて死んでいく者を目の前にして、私たちには何ができるか。この本のテーマは、この一言につきるように思う。最後のほうには、こう綴られていた――神様、なぜ私はアフガニスタンのように、これほどまでに無力になってしまったのだろう?
 そして私は、国道沿いのファミリーレストランというアメリカとも日本ともつかない空間でこの本を読む。低く音楽の流れる自分の部屋でこの本を読む。本という不思議。この私という残酷さ。


2002.3.26

 どのレビューを見ても、必ずほめてある「センセイの鞄」(川上弘美 平凡社)。川上弘美は「蛇を踏む」を読んでから、ちょっと敬遠していたのだけれど、これは楽しく読んだ。飾り気のないシンプルな文章で、こんなに豊かな世界を作ってしまうのは、やはりこの作家の力量なのだろう。私の好みとしては、もうちょっと歯ごたえがほしかったけれど、この作品が多くの人に愛される理由はよくわかる。


2002.3.25

 しばらく前に買ったままになっていた、「グレン・グールド伝」(ピーター・F・オストウォルド 筑摩書房)を引っ張り出して読む。グールドの伝記は何冊かでているが、これは、グールドの友人でもあり医者でもあった人によるもの。お医者さんらしく、考察は冷静で客観的だ。グールドの音楽的な業績よりも、グールド自身にスポットを当てている。――つまり、彼の病的な部分が、スキャンダラスにではなく語られる。グールドの変人ぶりが、その才能とひきかえに神様が彼に与えたものなのかはわからないけれど、何だか痛々しい。病気への恐怖心が強くて、1日に何回も血圧を測っていたとか、そういうエピソードがたくさん出てくる。
 グールドは若い頃は刺激的だけど年をとってくると聴くのがけっこうしんどい、みたいなことを誰かが言ってたけれど、私はむしろ逆だ。若い頃より今の方が、音楽がストレートに響いてくる。


2002.3.20

 「キース・ジャレット 音楽のすべてを語る」(立東社)。何気なくブックオフで買った一冊。4日間にわたる長大なインタビューの記録だ。あとで知ったのだが、1989年に出され今はもう絶版になったこの本は、ジャズファンの間では有名な一冊らしい。
 読んでみてとても驚いたのだが、彼がこの本(大判の厚い本だけれど)のなかで話しているのはほとんどひとつのこと、グルジェフのことなのだ。つまり、「私は目覚めていない。眠ったままだ。じゃあ、どうしたら目を覚ますことが出来るのだろう?」ということ、そして、「何かを求める気持ち、渇望する気持ち、獰猛な欲望」についての話だ。私は、キース・ジャレットについても、グルジェフについても、ほんの少しのことしか知らないけれど、音楽の話としてではなく、人生の話として、示唆の多い本だった。
 もし覚醒した状態を維持しようとするなら、自分自身とその対象の間にイメージを置いてはいけない。(K・J)
 われわれにとって芸術は目的でなく、手段である。(G・I・G)。
たいていの人は、自分が自分だと認められなくなることを恐れている。しかし、いったいなんだってそれほど自分だと認められる必要があるのだろう。人生から「ストレス」を取り除くのは、人生から人生を取り除くことだ。(K・J)
われわれにとって芸術は目的でなく、手段である。(G・I・G)


2002.3.17

 サガンを読むと、この人は本当に小説を書くのが好きなんだな、と嬉しくなる。この「ブラームスはお好き」(新潮文庫)の主人公は、人生をあきらめ、愛をあきらめ始めた39才の女性が主人公なのだが、これを書いたとき、サガンは24才だったのだから驚く。年齢が近いせいなのか、必要以上に主人公に感情移入してしまって読み終わったあと眠れぬ一夜をすごしてしまった。


2002.3.10

 「炎のごとく 写真家ダイアン・アーバス」(文藝春秋)。自殺した人の評伝で、書き手が自殺の原因をあれこれ分析して結論づけてしまうことほど、がっかりさせられるものはない。この本では、そういう決めつけがなかったので、その点に一番好感を持った。対象との距離を慎重にとりながら、でも、熱意にあふれ、ぐいぐいと読ませる力をもった評伝だと思う。それから、60年代のアメリカのアートシーンが語られるときに必ず感じる、あの「熱さ」のようなものをこの本のなかにも発見して興味深かった。


2002.3.6

 島尾敏雄「死の棘」(新潮文庫)。読むたびに、これは日本文学史上の金字塔だ、と興奮した思いにかられるのだが、どこがよいのかと尋ねられると、さっぱりわからない。以前読んだときは、けっこうネチネチした心理戦のイメージが強かったが、読み返してみると、夫婦間肉体派バトルも結構あって、やはり凄みがある。人間って、ほんとうにおかしい。死ぬまでにあと2回くらいこの小説を読み返しそうな気がする。


2002.3.4

 ロレンス「チャタレイ夫人の恋人」(新潮文庫)。完訳版だ。この本は本文部分のページ数が560ページだが、あとがきによると削除されていた部分はこのうち7、80ページくらいになるという。削除版を読んだ時にもそれなりに楽しんだが、今回完訳版を読んで「なんだ、こういう小説だったのか」を目を開かれる思いだった。前に読んだのは、あれは一体何だったのだろう、というほどの気持ち。新潮社も、古い版のものを持っていったらこの完訳版と交換してくれる、くらいのことをしてくれてもいいのに。この作品で「芸術か猥褻か」なんて大論争が起こったなんて、まるでSF。
 巻末の解説で、ある英文学者の人が、「ロレンスにとって性は思想だったのだ」とか「この作品には性のことだけじゃなくて、社会問題とかも含まれている」と必死に弁解しているのが、なんだかいじらしい。性を性のままに描いた、というだけじゃどうしてだめなのだろう?
 中学とか高校の教科書には、うじうじした私小説なんかじゃなくて、こういう小説を載せればいいのにね。そのほうが、よっぼど楽しいのに。


2002.3.2

 「よるくま」(偕成社)がとっても素敵な酒井駒子さんの新作は、小川未明の「赤い蝋燭と人魚」(偕成社)だ。それまでとぐっと変わった、ダークな絵も美しかったが、やはり圧巻は小川未明。多分読み返すのはほとんど30年ぶりだと思うが、「人魚は、南の方の海にばかり棲んでいるのではありません。北の海にも棲んでいたのであります。」という出だしははっきりと覚えている。どうという文章でもないが、読者を引き込み、これから物語られる世界を予感させるのに充分な見事な書き出し。物語は絶望的なまでに暗いが、このようなやるせない陰影が幼い私の心の滋養になってきたことを、今はっきりと自覚する。


 


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