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「本」と「ゆきのうえ」の のどかな日々
2002.5.15

 「鳩よ!」が休刊だそうである。またしても。この雑誌は創刊の頃、確か私は高校生だったと思うが、結構胸ときめかせて読んだ。伊藤比呂美と出会ったのも、当時の「鳩よ!」であった。こういう過去は恥ずかしいから隠しておくべきなのかもしれないが。
休刊前の最終号は斎藤美奈子による「L文学宣言」。「赤毛のアン」などに起源をもつ、一連の女性向け文学を指す。結構大胆なカテゴライズであるのは確かで、こういうのって何だか踏み絵的だ。これを理解できるかどうかで、文学や世間にたいする理解度や寛容度が計られるみたいで。
「L文学」自体への反論はさて置くとしても、それにしたって分類だけじゃ「批評」にならないよ、斎藤さん、と私は言いたい。「妊娠小説」とか「文章読本」とか、あなたの切れ味の鋭さには敬服するけれど、分類と命名だけだったら電通にもできる。文芸批評というのは、そこから始まる、その先の作業なのではないの? そこから何かを問うていかなくては、そこから広がるパースペクティブを示さなくては、意味がないのじゃないの?
今は亡き「鳩よ!」にもひとこと言いたい。「志を高く持て」、と。


2002.5.10

 「珊瑚集」。永井荷風の訳したフランス詩のアンソロジー。タイトルが何ともいい。最近こういう味のあるタイトルの本に出会わないような気がする。文語体の詩は、なかなか良い。荷風おじさんの訳には、厳密に見てゆけばいろいろ誤訳がありそうな気配があるけれど。私の勝手な思いこみに過ぎないが、フランス語の詩には文語体がよく似合う。英語の詩は口語。漢詩にも、やっぱり口語だと思う。


2002.5.1

 「まなざしの記憶 だれかの傍らで」(鷲田清一 TBSブリタニカ)。植田正治の写真とのコラボレーションになっている。その昔、メルロ・ポンティや九鬼周造らの引用を自在に駆使しながら、アグレッシヴかつエレガントなモード論を展開していたこの著者が、ここ数年何だかまったく違った方向の仕事をしているらしいとは感じていた。というより、年末にいつも出されるリテレール「ことし読む本」の、確かおととしの号で、「哲学はコピーライティングに似ている」という一文に、我が眼を疑う思いを体験し、それ以来ずっと気になっていたのだ、この人のことが。
 この本を読んで、正確にではないかもしれないが、鷲田のおこなう「臨床哲学」なるものの輪郭が見えてきた。学問としては半熟卵の感触があるけれど、何かにたいして誠実でありたい、という思いは伝わってくる。植田正治の写真が、何と言っても、このうえなく良い。


2002.4.28

 バタイユの「マダム・エドワルダ」(生田耕作/訳 角川文庫)。表題作のほかに「死者」「眼球たん」や講演なども収められていて、お得な一冊。
 先日の「ザ・フェミニズム」は「エロスとは本来生を肯定する力だ」との言葉で終わっていたが、この本のなかには「エロティシズムとは死に至るまでの生命の肯定であります」とのバタイユの言葉がある。何だかおかしい。ぜんぜん違う世界なのに。
 改めて読んでも、その迫力には圧倒される。狂うのは女。それを慕うのが男。神になるのが女。神の後ろ姿を追い求めるのは男。


2002.4.25

 上野千鶴子の新刊が出ると必ず買う友人(男性)がいて、貸してくれた。今回は小倉千加子との対談で、タイトルは「ザ・フェミニズム」(筑摩書房)。話題がポンポン飛んで、「そこらへん、言葉の定義をもっとちゃんとしとかないと、あかんとちゃう?」とつっこみたくなる大ざっぱな理論が山盛り。援交してる女子高生に「セックスのテク(上野千鶴子のターム)」がないなんて、そんなこと何で決めつけるねん、とか。でも、多分、そうやって読者の気持ちを逆なでするのが、この本の狙いなんでしょうね。ガチガチに理論武装した前回の「ラディカルに語れば」のあとにこういう漫才本を出すのは上野千鶴子らしいとも言えるかもしれない。フェミニズムのいい所も悪い所も、この本に出ているような気がする。それらを潔く投げ出してくる上野千鶴子が嫌いではない。でも、もっと深くまで連れて行ってほしいとも思う。


2002.4.21

 10巻目にして初めて読んだ「パチプロ日記」(田山幸憲 白夜書房)。びっくりした。何にびっくりしたんだろう? うーん、文章にびっくりした。専門用語というか、業界用語をまったく知らないので、内容を理解できるわけでもないのに、取り憑かれたように500ページ余を一気に読んでしまった。長大な散文詩を読んでいるみたいだった。でも、「詩」と呼んでしまうのは、あまりにも俗っぽい表現だろう。この本には、もっと別種の品格がある。
連載の半ばにして逝った著者のがん闘病記にもなっている。「人が死ぬのは悲しいことだ」――会ったこともない人だけれど、この人の文章に触れると、そんな当たり前の感情がすとんと自分の中に落ちていくのを感じる。こういう感じって、ふだんわさわさと暮らしていると、なかなかないものなのだ、情けないことに。


2002.4.19

 「何を見ても何かを思いだす ヘミングウェイ未発表短編集」(新潮社)。20代から50代に書かれた短編7編が収められている。ヘミングウェイを読むのは久しぶりだったが、読みながら何度もフォークナーを読んでいるような錯覚を覚えた。突飛な感慨のようにも思えるし、当然なことのようにも思えるけれど。でも、ライフル、車、ホテル、ハムエッグ、スコッチ、アブサン、といったお馴染みの小道具や背景には、何だかちょっと鼻白む思い。ヘミングウェイのせいではなく、アメリカのせいでしょう、多分。


2002.4.17

 マーガレット・アトウッド「侍女の物語」(早川epi文庫)。カナダの人気作家による、SF的ディストピア小説。この近未来社会では、すべての女性から仕事や財産が奪われ、生活も思想信条も統制下に置かれている。環境汚染などによって少数になってしまった妊娠可能な女性は、貴重な資源として管理され、出産の道具としてエリートの家に派遣される。そこで妊娠のための儀式が行われるのだが、その性交に愛が介在しないようにさまざまな禁止事項が定められている。‥‥という、まったくもって暗い小説。宣伝の文句などから、もっとフェミニズム的な匂いのする小説かと思って読み始めたが、物語の設定や仕掛けに厚みがあって、そういう枠にははまらないおもしろさを感じた。何しろ女性たちから、まず名前と言葉が奪われるというところが象徴的である。


2002.4.15

 金井美恵子「ピクニック、その他の短編」(講談社学芸文庫)。堀江敏幸が編んだアンソロジー。この取り合わせは、憎たらしいくらいに、こちらをぞくぞくさせる。ピクニック、くずれる水、あかるい部屋のなかで‥‥。心を熱くさせながらこれらの作品を読みふけったのは、考えてみればもうずいぶん前のことだが、読み出すなりすぐに、頭と体がほてるような「あの感じ」がよみがえってきて、嬉しくなってしまう。


2002.4.12

 昨年出版された神谷美恵子論「喪失からの出発 神谷美恵子のこと」(太田雄三 岩波書店)を読む。神谷美恵子については、その存在を気にしながらも今まであまり縁がなくて、「精神科医としてらい病患者につくした人」「クリスチャン」という何となく優等生的なイメージしかなかった(多分、多くの人の抱いているイメージも同じだと思うけれど)。でも、この本では、「おんな」としての神谷、強烈な自我の持ち主として、迷い苦しむ神谷が描かれていた。ほんとの私はなんとふくざつな恐ろしい存在だろう――これは、冒頭近くで引用される神谷美恵子のことば。


2002.4.10

 笹原常与「仮泊港」(港の人)を読む。200部限定の詩集だが、縁あって私の手元にやって来た。笹原常与という詩人は今回初めて知った。とても寡作な人で、この詩集も40年ぶりだという。読んでいて私には、この詩人がとても心やさしい人に思われた。読む者を力まかせに引きずりまわすようなことはなく、ときに、「もっと責め立ててくれても構わないのに」とこちらが思う手前で、はじらいの表情でもって引き返してしまう。でも、それは物足りなさというよりは、むしろ、ほんのりとした言葉のあたたかさを読む者に残す。造本も秀逸。この厚さも良い。厚い詩集、というのは、私を幸せな気持ちにさせるもののひとつだ。


 


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