■2003.10.27

「エリック・ホッファー自伝」(作品社)。沖中氏として働き始め、本が出版される40才のころまでの話。子どものころ、いったん失明してから再び見えるようになったという逸話から始まって、放浪したり、自殺未遂したり、こういう生涯を波瀾万丈と言うのだろうが、「自伝」として書かれたこの文章は、ただ冷静に自分の人生を振り返っている。感傷も言い訳もなく、「こうであったから私はこうした」という事実の羅列である。
この人が生涯を通じてやり続けたことは、本を読むということと、自分のなかのある倫理に忠実に従うということのふたつだと言う気がする。そのことを、愚鈍と言えるほどに、ひたすらにやり通した人だけが持てる言葉の重たさというものがある。この本に書かれているのは、そんな中味のぎっしりつまったフルーツのような、滋養豊かな言葉のみだ。
■2003.10.20

「西田幾多郎随筆集」(岩波文庫)。難解な西田幾多郎だが、この一冊は、実に親しみやすく紹介してくれているので、私のような教養のない者には、もってこいである。随筆や手紙、そして、有名な日記のダイジェストまで入っている。この本を読む前に、図書館で全集に収められた日記をパラパラと読んでいたのが、意外におもしろくて、すっかりはまってしまった。この本を読んだのも、まず日記を読みたかったから。
西田幾多郎という人はガチガチの堅物で坐禅ばっかりしている、というイメージがあるけれど、子どもが亡くなったり、病気がちの奥さんの代わりに子どもの面倒をみたり、けっこう人生大変だったのだ。でも、日記からは、孤高の西田哲学とは正反対に思えるようなそれら日常のことにも、まっすぐに、なおかつ暖かく接する西田の姿が伝わってくるのだ。出来事の記録だけのような簡潔さの中から、何とも言えぬ清々しさがたちのぼる。煙草と甘い物が大好きで、しょっちゅう「やめなくっちゃ」と書いているのも、ちょっとかわいい。
……にしても、「晴・寒。午前打坐。午後打坐。夜打坐。月清し」なんて日記は、世界で一番かっこいい日記だと思う。
■2003.10.17

小泉節子「思ひ出の記」(ヒヨコ舎)。小泉八雲の奥さんのエッセイが出版されると知って、本が出るのを楽しみにしていた。八雲は好きなので、私じしんにとってはまったく不自然なことではないが、考えてみれば、なぜ今、この本が出るのか、ちょっと不思議。でも、ページを繰り始めれば、そんな疑問は吹き飛んでしまう。亡くなった夫との暮らしを語る、小さな優しい声が耳元に聞こえてきそう。
「美しい景色、私このやうな処に生きる、好みます」といった、ハーンのちょっとかわいい日本語がいい。かつての日本を舞台に、ひと組の夫婦がお互いをいつくしみ合う姿も美しい。
逆立っていた気持ちがなでつけられるような、心やさしく、つつましい魅力を もった本である。
■2003.10.15

「舟越桂作品集 遠くからの声」(角川書店)。作品集といっても、正面を向いた彫刻が並んでいるのではなく、もっと親密な雰囲気を漂わせた、ごく小型の本だ。
作品に近づいたり遠ざかったり、下から見上げたり、見下ろしたりしながら、彫刻たちと言葉を交わす。彫刻たちは、透明な言葉を吐き続けている。とても雄弁な語り手たちだ。床に横たえられた作りかけの作品でさえ、もう語り始めている。
作品の写真のほかに、写真家の豊浦正明がアトリエに通いつめて撮りためたという舟越の姿なども収められている。それから、舟越の手書きのメモなども、コラージュ風に添えられている。彫刻を楽しむことがそのまま一冊の本になったような本。
■2003.10.9

「年を歴(へ)た鰐(わに)の話」(文藝春秋)。
フランスの作家、レオポール・ショヴォによる寓話集。評論やエッセイで活躍した山本夏彦の最初の本であり、長い間、幻の本となっていたのが復刻されたのだと言う。「幻の」と言われてきたゆえんは、ストーリーのおもしろさや、ちょっとシニカルなユーモアをたたえた(ショヴォ自身による)挿絵のモダンさだけでなく、何よりも翻訳であることをまったく感じさせない訳文のうまさが、文筆家や編集者たちの間に伝えられていたからだ。読んでみると、その伝説が誇張ではないことが、よくわかる。
山本夏彦は、雑誌などでエッセイを読む以外にはなじみの薄い作家だが、クラシックな雰囲気のこの本が書店に並んでいる姿が何となく魅力で、思わず買ってしまった。
巻末には、この本について書かれた解説があり、特に吉行淳之介と久世光彦によるものは、本を愛する心持ちがよく伝わってきて味わいが深い。さすが。
■2003.10.7

「趣味は読書。」(平凡社)。斎藤美奈子が、最近のベストセラー小説を読む、という本だ。最初の章に、総務省の統計などを出しながら、「趣味は読書」という酔狂な人は、100人の村の4、5人だとある。なるほど。私自身は自分の趣味が読書だなんて思いはしないが、本にお金や時間をかなりかけているという点から言って、ハタから見れば、こういうのを「趣味」というのだろう。
いつもの通り、切り口がすっぱりしていて、軽快で、読んでいて気持ちがよい。
気持ちよすぎて、「あー、すっきりしたー」と終わってしまうのが、難と言えば難。
■2003.10.2

「小説修業」(朝日新聞社)。小島信夫と保坂和志の往復書簡。ふたりの作家が小説について語り合う。小説について、というよりも、小説家として生きることについて、という方が正確かもしれない。最初の手紙で保坂は、本を読んだり人と話したりすることが小説を書くことと同等の意味を持っている、という小島の言葉を引用しながら、「私は小説や文学に終始したい」と宣言する。もちろん小島信夫は、そんな言葉をさらりとかわす。
話題は、このふたりの小説家の内的な必然性のみによって転がっていくから、ちょっとわかりにくいところもある。けれど、例えば、以下のような箇所を読むと、小説家として生きることの姿が如実に伝わってくるのである。……ぼくは「白十字」に原稿を前にしたあなたを残して、国立の駅の北口から南口にわたって、島田文具店から原稿用紙を買ってもどってくると、あなたはずっと暗い表情をして、「読みました」といい、「先生はイジワルだ」と呟いた。そのあと、「後藤明生さんが、先生に敵意を抱いていたのは、こういうことだった」といった。それからいつもの顔にもどるまで話をしていた。もどすために話をしたわけでもなかった。
小説家として生きるということは、少しだけずれたリアリティを生きるということなのかもしれない。