■2004.6.21

阿部和重「映画覚書 vol.1」。
まめに映画を観るということはしていないけれど、取り上げられている映画はマニアックなものばかりというわけでもないので、70パーセントくらいはついていける。でも、当然のことながら、映画評論それ自体のおもしろさと、取り上げられている作品を知っているかどうかは直接は関係ない。とにかく、映画へのこの切ないまでの思いの詰まった文章を500ページにもわたって読むことができるというのが、うれしいのだ。この人の文章は、論理のすきまからこぼれてくる感情が、ときどきとても子どもっぽくて、思わずそこに魅せられてしまう。もてる男が無意識のうちに身につけた手練手管ではないかという疑いもちょっと湧くが。
中原昌也や蓮実重彦との対談もおもしろかった。それから、スピルバーグ論もおもしろかった。
■2004.6.18

池波正太郎と淀川長治の対談集「映画行脚」(河出書房新社)。なつかしい、おじいちゃんに再会。
雑誌などに掲載されたふたりの対談を集めたもの。昔の映画から、(当時の)最新の映画まで、ふたりのおしゃべりは、瞳を輝かせた少年たちが陽気にじゃれあっている感じ。
ふかふかの椅子のシネコンなどではなく、街なかの古い映画館の暗闇に、久し振りに身を浸してみたくなった。昔よく通った自由が丘の映画館を思い出した。
■2004.6.16

「母の贈りもの アン・モロー・リンドバーグ 最後の日々」(青土社)。この本を書いたのは、いわゆるリンドバーグ夫人の娘。フルタイムの介護が必要となった母親を引き取り、その死に立ち会うまで、1年半にわたって書かれた文章。
リンドバーグ夫人は、94歳まで生き、2001年に亡くなったそうだ。もはや賢く美しい母ではなく、頭のぼんやりした老人になった母と向き合う日々。
娘にとって、かけがえのなかった母の言葉。しかし母はもう書くこともなく、しゃべることさえしない。その喪失感を克服していく旅の日記だ。こういう言い方を本人は喜ばれないのかもしれないけれど、介護という気の重たくなる日々を聡明さによって乗り越えていこうとする精神には、読む者としては、やはり、母親と同質のものを感じてしまう。
■2004.6.12

映画監督の森達也の「スプーン」(飛鳥新社)は、サブタイトルが「超能力者の日常と憂鬱」となっていて、清田益章、秋山眞人、堤裕司という、ひと昔前にテレビによく出ていた3人の超能力者が登場する。取材期間は数年に渡っていて、マスコミにもてはやされ、そしてマスコミに手ひどい仕打ちを受けた青年たちの肖像になっている。この本のもうひとりの主人公はマスコミなのだ。
超能力者への取材は、オウム真理教のドキュメンタリー「A」と並行の仕事だったというが、確かにこれは「A」とは違ったもうひとつのサイドから描き出すマスコミ論になっている。
私は超能力大好き。超能力が実在するかどうかについては、著者は慎重な態度をとっていたけれど、この本を読んで私は自分もその気になりさえすればスプーンを曲げられることを確信したのだった。「その気になるかどうか」が一番、大切で難しいポイントだけど。
■2004.6.1

壺井栄「二十四の瞳」。子どもの頃何冊も買い揃えていた(そのなかの父親のイチ押しは「次郎物語」だった。何かほかのをすすめてくれれば、こんなに遠回りせずに済んだのに、という気がしないでもない)、子ども向けの日本文学全集で読んだ記憶がかすかにある。でも、やっぱり映画の印象のほうが圧倒的に強く残っている。
記憶の中の大石先生は、母性的な、憧れるべき大人の女性だった。けれど今読むと、あまりにもあどけない、腹も据わらない腰も決まらない、年若い女性だった。純粋な若さをみなぎらせた、大人になりかけの少女の面影だ。もちろんそのことは、私にとって、この小説の魅力を増しこそすれ、決して損なうものではなかった。