■2004.9.29

「優雅な生活が最高の復讐である」(新潮文庫)を読む。この本は、私がまだ大学生だったころにリブロポートから出て、装幀に強く惹かれて買ったのを覚えている。本そのものは、確か誰かに貸したままになってしまって今はもう手許にないけれど、本の存在感は今も非常に印象深く心に残っている。と、こう言えばひとことだけれど、考えてみれば20年近く前の話である。本というものの生きる時間の流れかたに改めて感じ入る。青山南という翻訳家の名前を知ったのも、あの時だったように思う。本の形が変わってしまったことは非常に残念だったけれど、久し振りに文庫として出版されたと知ってやっぱり買ってしまった。
内容は、フィッツジェラルドの「夜はやさし」のモデルになった夫妻にカルヴィン・トムキンズがインタビューし、20年代パリの時代の雰囲気を再現している。そしてそこには、フィッツジェラルドの作品と同じく、虚無と死の気配が優雅さや華やかさと同居している。
今回のは新版をもとに訳し直されたもの。しかし、前回読んだときより数段おもしろく感じたのは、そのせいばかりではなく、むしろ私自身の変化のせいだろう。あの時よりも今のほうが、フィッツジェラルドをたくさん読んでいるし、お金にたいするリアリティも強くなったし、虚しさにも慣れてきたし、死にも近くなった。
■2004.9.23

原田正治「弟を殺した彼と、僕」(ポプラ社)。
ある日、警察が訪ねてくる。1年数ヶ月前に自動車事故で亡くなった弟は、実は保険金目当てで殺されたのだという。それからすぐに弟の友人だった犯人が逮捕され、著者の人生は、一変した。押し寄せるマスコミに揉みくちゃにされながら、とまどい、憎しみ、憤りといった感情に押し流される日々。そして、加害者と交流を持つようになり、さまざまな感情の変遷を経て、死刑廃止運動に関わるようになる。
ある日突然「被害者遺族」になった者の人生は、想像を絶するほど苛酷だ。愛する者を殺した相手に、人は「死んでお詫びすること」と「生きて償うこと」の、どちらを願うのだろう。「赦し」とは一体何だろう。
タイトルの「弟を殺した彼と、僕」という言葉が、寓話でも何でもなく、事実であることの凄まじさ。終わりのほうで、著者が呟く「赦す権利が僕にはないのではないか」という言葉が、重い。
■2004.9.21

最近になって発見され尾崎翠作と確認された小文がまとめられたという。「迷へる魂」(筑摩書房)。ごく初期の作品となれば、資料的な価値も高いのだろうが、尾崎翠という名前をはずして一冊の本とみると、正直ちょっと物足りない感じも残る。でも、ところどころに感覚を刺激されるような、この人独特の鋭利さが見えてどきっとする。
田中恭吉の装画が、しっくりと馴染んでいる本。
■2004.9.19

旅行に行くときは、必ず2、3冊、文庫本をかばんにしのばせるのだけれど、開きもせずそのまま帰ってくることも多い。逆に、旅に出るたびにたくさん本を読むという人もいるようだが、私の場合、旅の気分と読書の気分は、あまりなじまないみたいだ。
久し振りに旅先で堪能した読書が、小川洋子の「ホテルアイリス」(幻冬舎文庫)。少し前に何気なく買った、薄い文庫本。ひなびた避暑地を舞台にした物語のなかは曇り空や雨ばかりだったが、台風と台風の間の完璧な青空の下の浜辺に、妙に似合っていた。
同じビーチに20人ほどの団体がいて、かわるがわる楽器を鳴らしたり、歌ったり踊ったりしながら、朝からずっと楽しそうにサンバをやっていた。一日中ボサノバを聴いていることはあっても、一日中サンバを聴くのは初めてで、とっても楽しかった。すごく得した気分の日。
■2004.9.15

「納棺夫日記」(文春文庫)。納棺夫というのは、この著者、青木新門という人の造語なのだが、亡くなった人の遺体を清めて棺に収める仕事を専門にする人のこと。仕事は葬儀社から回ってくる。
著者はもともと文学を志したり店を経営したりしていたらしいが、生活にせまられたある時、ふと葬儀会社に就職して、地元富山でこの仕事をするようになった。そのような仕事に就いたことにかんする周囲の抵抗感をふくめ、人の生き死にという抜きさしならない現実のなかでしか見えない事実の数々には、やはり圧倒される。文章の上手い下手を超えた「すごみ」を感じる。
前半は仕事でおこったことを記した日記体になっていて、後半には著者の「死」への考察が綴られる。むしろ「死」を解釈せずに、事実だけ示してくれたほうがもっと興味が持てたように私には思えた。
■2004.9.4

安部公房という作家は、中学生くらいのときにちょっと読んだきりで縁がなかったのだが、ヴィレッジヴァンガードに何冊か並んでいたので(もちろん、例のそそるポップつきで)、この「壁」(新潮文庫)を買って読んでみた。
表紙から、扉、目次をとばして「序」というのを読み始めると、いきなり文章がぐいぐいこちらを引っ張っていく。ジェットコースターに乗せられた気分で、「なんだ、なんだ、安部公房ってこんなにすごい文章の書き手だったんだ」と興奮しながら読み進む。で、4ページ目の序文の最後に「石川淳」。
ま、本人による序文だなんて勘違いしたこちらが悪いのだ。自分で自分に「たしかにこの巧みさは石川淳だ」と納得させてみたり、「途中で、〈阿部君が〉と出てきたから、ちょっとおかしいと思ったんだよね」と言い訳してみたりするのだが、興奮が高かっただけに、本当の書き手の名を知ったときのショックが大きい。そこから立ち直れずに、作品自体を読み進むが、とうとう最後まで物語に入ってゆけずじまい。この作家とは、やっぱり縁がなかったのか。いや、でも、またいつかトライしてみよう。