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■2005.1.25
最近、本屋さんに行くと「期待の女性作家誕生」といった形で宣伝されている本がたくさんあってとまどう。どの本もおしゃれな装丁だし、期待をもってあちこち拾い読みするのだけれど、買うまでには至らないことが多い。それぞれの場所で一生懸命書いているのだろうとは伝わってくるけれど、それにしてもどうしてみんな、恋や家族や飲み食いや日常の暮らしばかりを書き続けるのか、しばしば不思議に思ってしまう。空気感のあるカジュアルな文体に少しの毒と少しのユーモア。抵抗感はないけれど、何だかいろんなお店のプリンを食べ比べているような錯覚に陥る。プリンはおいしいけれど、やっぱりおやつかデザートであって、メインディッシュにはなりにくい。
瀬尾まいこの「幸福な食卓」(講談社)も、私の偏見に基づいて分類するなら、そういうプリン小説のひとつなのだけれど、でも、読んでる最中は、そのおいしさをとっても楽しんだし、読み終わったあとも、プリンと呼ぶのは申し訳ないような歯ごたえを感じた。この感じは、前作の「図書館の神様」には、なかったもの。新しい作品を発表するたびに力をつけていっている作家の小説だけがもつ、特別なパワーがあると思った。 |
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■2005.1.21
「ドリトル先生航海記」(岩波少年文庫)を、久し振りで読み直したら、もうすっかり夢中。個性豊かな動物たち。そして何より、大切なことだけをきちんと見る、ドリトル先生の人柄。「航海記」では、このシリーズの語り手である「私」がドリトル先生にはじめて出会って助手になる経緯が語られているのだけれど、先生の人柄はたとえば、先生の家の台所の描写を通して伝わってくる。何しろそれは、「世界じゅうでいちばんりっぱな食堂よりも、食べ物のおいしい場所」なのだ。こぢんまりとしていて、雑然としているけれど機能的。人の心をゆるめ、あたため、ゆっくりと味わうことをさせてくれる場所。
アヒルのダブダブも、犬のジップも、オシツオサレツも全然変わってない。久し振りに会えてうれしかった。 |
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■2005.01.15
ボーダーのシャツを着てデッキシューズをはき、ビールにサンドイッチ、そして、魚釣りや葉巻や孤独。しかも、猫やきれいな女の人にも登場するから、男の人がヘミングウェイに憧れちゃうのもよくわかる。だからこちらとしては、彼の小説を読むときには、ついついナルシストの男の人を相手にするような、ちょっと鼻で笑うような態度をとってしまう。で、読み終わっていつも、この小説家だけが見ていた果てしない孤独に触れて、軽んじるような気持ちを抱いたことを深く反省するのだ。
「海流のなかの島々」(新潮文庫)は、ヘミングウェイの遺作。自殺したあと発見された原稿を整理して出されたもの。ほぼ完成した形ではあるものの、発表しにくかったさまざまな事情も伺える。このあたりは、巻末の訳者解説に、わかりやすい。
3部からなる長編なのだが、それぞれが独立した色合いをもっており、でも、すべてヘミングウェイそのものといった小説なのだ。海も船も女性も、酒も、猫も、すべてヘミングウェイの世界に生きているものたちだ。そして、ヘミングウェイ自身としか思えない主人公。この男の姿は、死に向かって歩くこの小説家が身を削って書いた自画像なのだ。胸が痛くなる。 |
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■2005.1.12
「不思議の国のララ」(メタローグ)。尾崎翠の作品がこんな形で編集されていることを知らなかったので、少し戸惑いながら読み始めた。どういう基準で作品が選ばれているのかが、どこにも明言されていないので、そこが何となく読んでいて足許が不安な感じをおぼえる原因だろう。
けれど、いったん作品の世界に入ってしまえば、そこはもう、尾崎翠の世界というほかない。箱に並んだ色とりどりのガラス玉をひとつひとつ手にとって光にかざし、ゆがんだ像を眺めるのだ。30代で筆を折り、75才で亡くなったこの作家の作品を読むたびに、もし書き続けていたのなら、どんな作品を書いたのかと、どうしても想像してしまう。書けなかったのか、書かなかったのか、おそらく、書く書かないといった選択じたいが成立しないような状況のなかに後半生を過ごしたのだろうが、読者にとっては、作品は、ただ「ない」のだ。同じように独特の美の感性を持った女性作家の名前を何人か思い浮かべるが、私がどんなに好きな作家も、尾崎翠の代わりは果たしてくれない。「ない」という穴が、ただそこにぽっかりと広がるだけなのだ。 |
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■2005.1.10
「百年の誤読」(ぴあ)。同じ豊崎由美が対談しているというだけで、やっぱりどうしても「文学賞メッタ斬り」と比べてしまい、笑いのポイントが少ないことを不満に思うのは、この本にたいして気の毒というもの。1900年から2000年まで100年間のベストセラーの検証という着眼点を、まず評価すべき。「へえ、こんな本が売れたんだ」などと細部を楽しむことはたくさんあったけれど、でも読み終わっても、当然のことながらベストセラーの秘密が解き明かされるはずもなく、どんな本が売れるかなんて誰にもわからない、ということが確認されるだけなので、何だか居心地が悪くなってしまうのだ。
でもやっぱり、「恩讐の彼方に」とか「放浪記」「人生劇場」はともかく、「渋江抽斎」「武蔵野」「羅生門」「それから」なんかが、当時ベストセラーになったというのは、意外なことに思えてしまう。それに「性生活の知恵」や「完全なる結婚」はわかるけど、「智恵子抄」が流行ったなんて読むと、ひどくエッチな気がしてドキッとしてしまう。「斜陽」だって、確か、お母様の放尿シーンがあったはずだし。
豊崎由美があとがきで、「読んでみなけりゃわからない。今「あらすじで読む」云々シリーズがそれこそベストセラーになっているようですが、本は一冊丸々読んで、初めて理解できる、あるいは理解できないことが理解できるのです」と書いていて、まったくその通り。 |
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■2005.1.5
チェーホフの「かもめ」を読んだ。今さらのように、この本を読んだきっかけはふたつあって、ひとつは、「La Petite Lili」という映画をDVDを観て、そのお話の原作がこの作品と知り興味を持ったこと(映画はいまひとつだったけれど)。それからもうひとつは、年上の友人と話していて、「僕が学生のころは神西訳が定番だった」と聞き、神西清が誰かも知らなかった私は、そうか、ロシア文学が必須アイテムだった時代があったんだよな、と思った次第。この本は残念ながら違う訳者だけれど、とにかく読んでみようと、手近にあった岩波文庫を手に取った。
チェーホフは、同じ岩波文庫の「可愛い女」とか「犬を連れた奥さん」の入った一冊を思春期のころに読んで気に入って何度か読み返したっけと、突然思い出す。高校の図書館の温かくて甘い空気を思い出しながら、読み終わるころには、すっかり引きずり込まれていた。言葉づかいひとつとっても、登場人物たちと共有するものはごく少ないのだけれど、人間の感情というものの持つ温度、あるいは湿度のようなものが、ひとつの実体としてずっしり伝わってくる。ほんとに、もう、ドラマには、それさえあればいいのかもしれない。 |
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■2005.1.3
保坂和志「生きる歓び」(新潮社)。生まれて間もない死にかけた子猫を拾う表題作と田中小実昌が亡くなったときに発表された「小実昌さんのこと」の2篇が収められている。私も手のひらにのるほどの小さな子猫を拾って育てたことが何度かあり、そのうちの1匹は、この小説の猫と同じく片目がつぶれていたし、それに、著者が田中小実昌を訪ねていった田園調布にも住んだことがあるので、しばしば思い出にふけってしまった。そういうふうに、読みながらぼんやりと思い出にふけることも許してくれる、心やさしい小説だった。
長い「あとがき」も、このふたつの小説に負けずにおもしろくて、私たちがなにごとかを断言したり、総括したり、結論づけたりすることのあやうさを指摘しながらも、そのあやうささえもあやういままでいいんじゃないか、と言っているように読める。だから、読んでいて妙に心細いような、こそばゆいような気持ちになるのだが、この感触は、ほかの作家では絶対に与えてくれないものだし、だから、この小説を読んだことを大事にしたいと思った。 |
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