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■2005.2.20
「映画はおそろしい」(青土社)は、映画監督、黒沢清の本。最近、DVDやビデオで立て続けに黒沢清のを見ている。本でもそうだけれど、お気に入りの作家に出会って、その人の作品を次から次へと見ていくときって、本当に楽しい。
この本は、数年前に出版されたもので、いろいろな雑誌などに書いた文章を集めたもの。ここに書いてあったことをきっかけに、さらに、ホラー映画にまで触手をのばし始めたので、ここのところ毎日が結構スリリングである。
自分の感情のうち多くの領域は、無数の汚れや傷跡やかさぶたに覆われていて、ふだんはほとんど元の形が見えないくらいになってしまっているのだが、ホラー映画などで味わう種類の「恐怖」というのは、ほとんどピュアなまま残っているのに気づく。さまざまな文化的な制度や個人史的な物語に侵されていない場所が自分のなかにあるというのは大きな発見だった。「映画はおそろしい」というこの本のタイトルも、そういう意味なのだと思う。
本の後半にあるサンダンス・インスティテュート滞在記が、意外とおもしろかった。「ドレミファ娘」を観た見知らぬ女優が「あなたって見かけはマイルドだけど本当はクレイジーなのね」と話しかけてきたとあって、これは私がこの監督に抱いているイメージと同じだったので、ちょっと可笑しかった。それからもうひとつのエピソード。会期が終わりに近づいた日のミーティングで黒沢清が「サンダンスは反ハリウッドなのか、それともハリウッド予備校なのか、今もってわからない」と質問したら、居合わせた人みんなが黙ってしまった、という。この疑問も、私がずっと気になっていたことだった。謎は解けぬままだけれど、みんなわからないんだと知って、ちょっと安心。 |
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■2005.2.14
アーヴィングの次に「異形の愛」(ペヨトル工房)を読んだのは、まったくの偶然だったのだが、見かけはまったく違うのに、ほとんど同質のテーマを扱っているので驚いた。家族の一代記という意味では「ホテル・ニューハンプシャー」にもっと近いかもしれない。このふたりの作家がほぼ同年代であり、同じアメリカの作家だからだろうか。でも、この「異形の愛」の終わりには、自分の生い立ちがストレートに語られている感動的な「あとがき」があって、この小説がキャサリン・ダンという作家本人の強い必然性から生まれたことが明らかにされているのだ。
この小説は「次を読みたい」という気持ちにさせる点ではアーヴィングに勝っているかもしれない。でも、ページをめくりたくないという気持ちにもさせる。なぜって、ものすごく恐いから。
ビネウスキ夫妻はありとあらゆる薬物を摂取して、異様な姿や能力を持つ子ども達を創造した。この小説は、一家でフリーク・ショウを営むビネウスキ一家の物語。この一家のルールに従えば、普通に生まれついた子どもは、出来損ないとして捨てられる運命にあう。小説の語り手であるオリーは(死産や早産の子を除けば)2番目の子どもで、白子でせむしで小人である。
小説全体を映画「フリークス」と同質の神々しさが覆っているのはもちろんだが、とにかく、切ない愛の物語なのである。人間とはすべて、生まれてから死ぬまで「愛してほしい」と叫び続ける、異様な生き物なのだ。 |
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■2005.02.08
ジョン・アーヴィングの「ガープの世界」(新潮文庫)を久し振りに読み直した。上下巻それぞれ500ページ弱の文庫本なのだけれど、一気に読んでしまった。おもしろかった。
訳者が「あとがき」で言っていることの繰り返しになってしまうけれど、ガープという風変わりな男の一生のこの物語のなかに、こんな印象的な挿話がある。
ガープが最初の長編小説を持ち込んだとき、編集者のジョン・ウルフは、それをジルシー・スローパーに読ませた。彼女は出版社の掃除婦で、「本なんて読みたいとも思わない」と常日頃口にしているような、読書や文学とはほど遠い世界に住む人物だった。ジョンは出版すべきかどうかを悩んだとき、彼女に読ませて彼女がおもしろいと言えば(たいていは気に入らなかったが)、自信をもって出版することができたのだ。
ガープの原稿を読んでもらったときは、実はジョン・ウルフはもう、ガープに出版を断る心づもりでいた。とても奇妙で、居心地が悪く、「まちがった小説」としか思えなかったからだ。ジルシー・スローパーの感想はこうだった。「たまげた、おったまげた」。そして「この本に気に入るとこなんて、どこにもない」と。ではどうして最後まで読んだのか、ジョン・ウルフが尋ねると、彼女はこう答えるのだ。「ほかの本を読むのと同じ、次がどうなるか、知りたいから」。そして、「すると、きみは次がどうなるか知りたくて本を読むわけだね?」と重ねて聞く編集者に、掃除婦はあきれながら答える。「ほかに本を読む理由なんて、ないんじゃない?」と。
この箇所は、アーヴィングの小説にたいする考えがはっきりと表れている(あまりにもはっきりしすぎているから、字面通りに受け取るだけじゃだめだとわかるけれど)。「次を読みたい」という欲望は、「食べたい」「眠りたい」と同じくらい、基本的な欲望のありかただ。だから、それに身をまかせると、何だかとっても健康になったような気がしてしまう。もちろん「健康」にたいする疑いも、私のなかには少なからず、あるのだが。 |
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■2005.2.07
「ぐるりのこと」(新潮社)。梨木香歩の、物語以外の文章を読むのは、多分、初めて。「ぐるりのこと」というは、自分の身の回りの領域を指す。自分の手で触れ、自分の目で見、自分自身で気配を感じ取れる、小さくても確かな領域。
話題は、文字通り身の回りで起こったことから、旅したトルコ、テレビで伝えられる事件、書物で調べた西郷隆盛、など、一見ばらばらのように見えて、でも、それは、文章の書き手の「ぐるりのことである」という一点で、強く結ばれているのである。
正直言って私は、この本から、作家の「ほんとうの言葉だけが残ってゆくのだ」という強い決意を感じ、ほとんど打ちのめされてしまった。「ほんとうの」というのは、「切実である」というのに、いちばん近いかもしれない。自分の内面に照らし合わせ、それが本当に自分の心の底から出ている言葉なのかをひとつひとつ確かめながら記された言葉が、ここにあった。だから、行きつ戻りつしたり、うろうろしたりしたり、ぎしぎしときしみながら文章は進んでいく。言葉がするすると流れていくと、今度は読んでいる私のほうが、するすると呑みこんだりしないように、わざと舌を尖らせて味わっていく。
戦争だの情報だのが激しく行き交う時代にあって、「根っこのある言葉だけを吐いていく」というのは、ほとんど愚鈍な行いにも見える。このように愚鈍なことを愚鈍な姿でやっていこうとする書き手が同時代にいる、ということを発見したことは、心強いことでもあった。そして、そうやって吐かれた言葉は、「祈り」の姿をしているようにも思えた。 |
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■2005.2.3
「北村太郎を探して」(北冬舎)は、とっても特別な本。最初のほうに、未刊行未収録の詩やエッセイ。北村太郎の死後、毎年開かれている「北村太郎の会」での生前交流のあった詩人たちなどによる講演録、亡くなったときに発表された追悼文、亡くなって10年経った2002年に、北村太郎の思い出を持つ人たちが寄せた文章が収められているのだ。詩人や小説家が亡くなったあとに、遺稿や未発表の作品が出版されることはあっても、こんなにたくさんの人が、北村太郎という不在の中心に吸い寄せられ、それが一冊の本になったなんて、そんな本、ほかには知らない。だから、とっても特別な本なのだ。ひとりひとりが、この詩人の遺した詩を愛し、詩人をなつかしんでいる。「死の死」なんて詩を書き、「あなた、わたしを生きなかったわね」なんて詩行に記した詩人の生の一片が、この本の中にあった。 |
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■2005.2.1
三浦しをん「月魚」(角川文庫)。古書店が舞台になっている小説と聞いて、以前からちょっと気になっていた。過去に何か秘密を抱えたふたりの青年のふしぎな関係が暗示されながら物語が始まり、その謎が解き明かされるに点に向けてテンションが高まっていく展開は、とてもオーソドックスな流れとは言え、無理しているところもなく、楽しむことができた。
古書店の日常とか古書業界とか、私にとって興味津々の話題が取りこまれているのももちろん興味深かったけれど、多分、執筆にあたって作家もいろいろ取材したに違いなく、でも、その取材の跡が残らないようにしっかりと料理した上でストーリーに組み込んでいるのが伺えて、好感を持った。 |
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