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■2005.3.30
「熊谷守一クロッキー集 鳥獣虫魚」(神無書房)。変わり者画家、熊谷守一の素描集。終わりのほうに、熊谷の文章(談話をまとめたもの)と白州正子の文章と、このふたりの対談がおさめられている。対談と言っても、並大抵のダイアローグであるはずもなく、本当におかしくて楽しい。
熊谷守一の文章には「私は虫が好きです。蝿とか蚊とかが世の中にいなくなったら、世の中はずい分つまらなくなると思う」とある。その言葉通り、この本に登場する虫たちは、本当にかわいらしい。花は心に映ってくるし、茄子や栗はおいしそう。
年表をみていたら明治13年生まれとあって、そんなに昔の人だったっけ、と意外に思ってしまう。この画家は、ずっとおじいさんみたいでもあるし、ずっと若者みたいでもある。決して死なずに永遠に生きていても不思議ではないような気がしてしまう。95才のときの、ヒゲを長くのばしたポートレイトがあって、耳から金属の補聴器がのぞいているのだが、何度見ても、それをピアスに見間違えてしまう。「画架の前にカンバス置いて、描かぬ前の白いのは、何ときれいなと思いますが、人なんてものは甘ったるいところがあって、何か描き、あるいは汚さないと気が済まないものらしい」なんてことをさらっと言ってのける、ピアスの似合うおじいさんだ。 |
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■2005.3.27
旅行に出かけることになって、短い旅だし何か気軽に読めるものをと思って、「感じて。息づかいを。」(光文社文庫)という文庫本を通りすがりの本屋さんで買った。恋愛小説のアンソロジーで川上弘美が選者。タイトルが、昭和の歌謡曲ふうというか、何だかいまいちなので、あまり期待せずに読み始めたのだが、ちょっとびっくり。濃い味の作品が立て続けに出てきて、強烈でした。野坂昭如もよかったのだけれど、ショックを受けたのは、最後に収められていた藤枝静雄の「悲しいだけ」という一篇。結婚してからずっと病弱だった奥さんが死んで、自分の人生や自分の死のことを考えるお話。びっくりして、3度も読み直してしまった。そして、そのとき、私の中の「愛」という言葉は、うんと遠くへ飛んでいった。この短編に導かれるままに、感情の根っこの根っこをたぐって行くと、「愛」は何だか薄っぺらく思えてくる。人が人を深く思う、その思いにいちばんふさわしいのは、「哀れ」という言葉だ。誰かが生きていること、喜んでいること、悲しんでいること、歌っていること、泣いていること、そして死んでいくこと。それらを深く深く感じる心を「哀れ」と言うのだ。「哀れ」を宿した心は、どこかとても優しくて、柔らかい。 |
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■2005.03.20
「沢村貞子という人」(新潮社)。著者の山崎洋子は、長年沢村貞子のマネージャーをやっていた人で、沢村貞子の最後を看取った人でもあるという。沢村貞子自身のエッセイには出てこない、この女優の賢さやわがままさや、夫との関係が出てきて、それも楽屋話的におもしろいのだが、私はちょっと違う意味で、この本に惹かれてしまった。
著者は、まとまった文章を書くのは初めてだと書いているが、確かに特別に筆が立つというわけではない。でも、ここにある文章には、沢村貞子とか幸田文とかみたいに自分の身の始末に厳しかった昔の女の人だけが持つ、強さ、美しさ、奥ゆかしさ、鋭さが垣間見える。今、活躍している女性のエッセイストや作家は多いけれど、そういう味を持っている人というのは、意外と少ないのではないか。文章の上手い下手ではなくって、立ち姿の緊張感だけで、読ませてしまうような力。
このポイントで私が秘かに期待している人がひとりいる。それは、黒木瞳。私は、黒木瞳のエッセイが何だか好きなのだ。本屋さんで、よく立ち読みする(買わないんだけど)。自分を俯瞰で観ることのできるスマートな感性が、この女優にはあると思う。戦前の日本女性が、たしなみ、あるいは倫理として自分に課していた抑制と、黒木瞳が自分が女優として生きるにあたって実践している自己コントロールに、質的に似通ったものがあるのじゃないかと思う。皮肉の効かせ方も、文章で見得をきることも、よく知っているし、黒木瞳がうんとおばあさんになって、沢村貞子みたいに文筆に専念したりしたら、もっともっとおもしろいものが読めそうな気がする。ちょっと楽しみ。 |
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■2005.3.14
長嶋有「泣かない女はいない」(河出書房新社)。
帯に「堀込高樹氏(キリンジ)絶賛」と、ある。この微妙で的確な人選に、つい心を揺らす。長嶋有を芥川賞に選んだ人たちは、キリンジを知っているのだろうか、と、考えたりする。ま、私も、これが兄のほうなのか弟のほうなのか、わからないのだけど。
真っ白な紙の上に淡く淡く色を散らしていくことによって一枚の絵を仕上げるようにして書かれた小説。でも、この小説を本当の意味で成り立たせているのは、出来上がった絵の上手さとか、その淡い色の美しさより、というよりも、どんなに苦しくても淡い色しか使わずに踏ん張ってみせる、という作者の気構えのような気がした。
登場する人たちは、ほとんどみんなちょっとぼんやりしていて、おっとりおだやか。それも作者の意図のひとつであり、そこに共感を覚える人も多いのだろうけれど、私としては何だかちょっと物足りなくって「キミたち、やる気あんの?」とか嫌みを言いそう。
この小説に出てくるような人たちとは、あまり仲良くなれないような気がする。でもそれは、向こうが頼りなかったり魅力がなかったりするせいではなく、こちらが弱いからなのだ、ということはわかる。激しく怒ったり泣いたりはあまりせず、一見ほんのりと漂うように生きてるみたいな、こういう人たちが心の奥深くに持っている、揺らがない芯の強さみたいなものは、私が誰かをうらやましく思うときのポイントのひとつだ。この小説は、そういう「強さ」をていねいに書いると思った。
ところで、この本の目次には、2つの作品のタイトルが書いてある。それから2篇の小説を読み終わって、そのあとのページに、作家の略歴と一緒に「初出」が書いてあるのだが、そこには3つのタイトルが書いてあるのだ。あれ?と思って、前のページをめくってみるのだが、最後の「二人のデート」という作品はどこにもない。あちこちめくってみたけど、やっぱりない。編集のミスなのだろうかと、ちょっと釈然としない気持ちだった。ところが、ウェブを見ていたら、カバーの裏にも作品がある、とあってびっくり。確かめたら、そこには、超短編「二人のデート」が。自力では気づかなかっただろうと思うと、素直に喜べない感じ。でも、まあ、見つけられてよかった。 |
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■2005.3.8
石田千「踏切趣味」(筑摩書房)。
踏切。そのこちら側と向こう側で、人々は歩みを止め向かい合う。四分休符。永遠でも一瞬でもない、その間。踏切のそばには、商店街があったり、古本屋があったり、焼鳥屋があったりする。
踏切って、ノスタルジックなイメージがあるけれど、私鉄沿線に住む私にとっては、意外と身近な存在だ。この本で改めて気づいたけれど、踏切の近くには必ず生活がある。
この本は、東京近辺のあちらこちらへ、踏切を訪ねてぶらぶら散歩する。散文と俳句でつづられる、ささやかな旅行記だ。でも、この人の散文は、まるで俳句そのものだ。それは文体のリズムの話ではなくって、ものの見方が、何となく俳句的なのだ。俳句的っていうのは、枯れているっていうのと近いけど、ちょっと違う気もする。体温が低いというより、電圧が低いっていう感じかな? 叙情的でもないし、絵画的でもないし、「味」としか名づけようのないようなえんぴつでスケッチしていくような感じ。趣味人だな、と思う。 |
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■2005.3.1
青山真治「Helpless」(新潮社)。
映画監督が書いた小説、それも、映画と同じタイトル。ということで、青山真治の小説は、何となくずっと避けていた。映画の方は、とっても好きだから。好き、と言うより、いつも根幹から揺るがされるような体験をさせられるから。だから、本を読んだら、がっかりしそうで躊躇していた。
この本も、映画を観てから、おそるおそる読んだのだけれど、最初の不安はまったく無駄なものだった。第1部の「Helpless」と第2部の「わがとうそう」がクールで計算高いのに比べて、第3部の「軒下のならず者みたいに」は、小説の意外なタネが明かされて驚かせるものの、観念が走りすぎているというか言葉の目が粗くなるような気がした。でも、なぜ、映画と小説が両立するのかという疑問には、とても納得のいく答が得られて満足。映画を観たときは、体が天に昇っていくような気がして、小説を読んだ時は、深く深く沈んでいく気がした。どちらも、あまりにもやるせなくって、鳥肌が立つ。 |
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