 |
■2005.5.29
ポール・エリュアールの詩が美しい「自由」という名の絵本(朔北社)。「ぼくの大切なノートに 机に木々に砂に そして雪のうえにも ぼくはきみの名を書く」というフレーズで始まる。「ねがいがすべて消えてしまっても ひとりぼっちでなにもかもなくなってしまっても 死がちかづいてきても ぼくはきみの名を書く」「そしてひとつひとつの言葉の力で ぼくはもう一度人生に立ち向かう ぼくはきみに出会うためうまれてきた ぼくはきみの名を書きしるすため 自由という名を」。訳者のあとがきによると、この詩はレジスタンス運動の最中に書かれたもので、抵抗運動のさなかに自分で印刷して同志たちに配ったのだそうだ。エリュアールの生きた時代、そして彼自身の人生を考えながら、この詩は読まれるべきなのだろうが、それにしても、一直線に進むようなこのストレートさには、思わず体が反応してしまう。フランス語で読めたら、きっともっと楽しいだろうに。 |
|
 |
 |
■2005.5.24
大橋歩「おいしいおいしい」(集英社文庫)。1991年に出た本の文庫化。単行本から文庫本までの、この15年間の日本人の食をめぐる状況の変化は、ただごとじゃなかったのではないかと思う。スイーツとかデパ地下とかお取り寄せとか、そんな言葉なかったのではないかしら。(本を読むと、すぐ口調が似てくる)
この本には、おいしいものもたくさん登場するけれど、それが知りたくて買ったのではないのです。大橋歩さんは確かに食いしん坊だと思うし、わざわざ有名なレストランに出かけていったりもするけど、この本に表れている食に対する考え方は、実にしっかり地に足のついたもの。評判のお店に行列するような、なまなましさはなくって、仕事したり遊んだりする生活のなかでの食というバランスが、きちんととれている。それが、嬉しいというか、ほっとするというか。
最も心に残ったのは、高田喜佐さんの話。彼女は、自分の会社で働く人を選ぶとき、一緒に食事をするのだという。そうすると、相手のことがよくわかる、と。この本にも書いてある通り、一緒に食事をする、つまりひとつのテーブルで同じようなものを食べるというのは大切だと思う。一緒に暮らしたり、一緒に仕事をしたりする場合は、特に。 |
|
 |
 |
■2005.05.22
「世界一ぜいたくな子育て 欲張り世代の各国「母親」事情」(光文社新書)。 価値観の多様化とかよく言うけれど、ほどききることのできない固定観念というのは、案外多い。最近、いちばん便利に使われているのは「家族の絆」というやつで、特にアメリカ経由で入ってきたものの多くに、免罪符みたいにしてこのラベルが貼られているような気がする。「家族って何?」という問いは封じられたままで。
出産や育児というのは、人生のプランとか、社会のしくみとか、愛とか、お金とか、多かれ少なかれ人生におけるわりと大きな問題について考えざるをえない機会なのだと思う。衝動や思いこみが必ずしも悪いとは思わないけれど、自分に見えているものが、世界のほんの一部であることを知って損はないと思う。例えば、私たち日本人のほとんどは、男性でも女性でも、赤ちゃんは可能な限り粉ミルクより母乳で育てた方がいいと思っているけれど、フランスではこれは、必ずしも「常識」とは言えないみたいだ。
この本は、著者がフランスで出産をする際、病院で「あなたは母乳育児を選択しますか」と尋ねられた時に感じた違和感からスタートした。各国の女性に聞いた、これらの出産や育児の経験談は、わりと極端な例だとは思うけれど、その考え方の差には愕然とする。どれも先進国の女性で、地球規模で見れば、生活レベルに大きな差はなく、情報的にも開かれた場所にいる女性たちだけを比べても、これほどの差がある。妊娠出産なんて、動物としての本能や生理で行なうのだから、どこの国でもほぼ同じというイメージは、あまりにも素朴すぎるのだ。
本屋さんでこの本を買うとき、しばらく前に話題になった「オニババ化する……」というのが隣りに並んであったので、パラパラとめくってみた。このふたつの本の主張は、ほとんど正反対のように思えた。いや、同じ光文社新書だからって考え方が同じである必要なないんだけれど、著者のあとがきを読んでいたら、担当の編集者も同じ人みたいなので、ちょっと複雑な気持ちになった。 |
|
 |
 |
■2005.5.18
今度生まれ変わるときには、植物になりたい。生まれ落ちた場所から1歩も動かないで一生を終えるのは、悪くないことのような気がする。まあ、高速道路の中央分離帯に植わっている木とかになってしまうと、なかなかハードな一生を送ることになりそうだけど、でも、それでもいい。
植物の本で久々のヒットが、この「ひみつの植物」(WAVE出版)。サボテンとかエアプランツとか、ピンクのタンポポとか、変わった色のカリフラワーとか、変わり者の植物たちを紹介する本。愛情の深さとマニア度の高さが、私にちょうどいい感じ。それにしてもこの世におけるサボテンっていう存在には、いつものことながら、言葉を失う。 |
|
 |
 |
■2005.5.12
小沼丹「懐中時計」(講談社学芸文庫)。
以前この作家の推理小説を読んだが、何となくなじめなくて、途中でやめてしまったことがある。でも今回、この短篇集は、1行1行を味わうように楽しむことができて、こういう作家がいたのかと、今さらながらの嬉しい驚き。
連作ではないが、題材は初老の男たちの身の回りに起きることを描いたものばかり。恐らく実際に彼らに会っても、強い印象を残すことはない普通のおじさんたちだと思う。特別なもの、激しいものに心をかすめ取られるばかりの私が、彼らの声に耳を傾けることなど、きっとできなかっただろう。この小説抜きには。
人はみな、生きてきた年数に応じた量の哀歓を胸に秘めながら、暮らしている。しかし注意深く見れば見るほど、平穏な毎日の中にも、死や疑いやが、いとも簡単にするりと入り込んでくるがはっきりとわかる。その入り込み方がさりげないほど、恐怖は大きい。不本意なものに否応もなく直面させられ、そのたびに立ちすくみながら生きている人々の姿が目に焼き付く。怖れる、ということの意味をよく知っているこの作家の内側にあるゴツゴツしたものに素手で触れるような思いだった。
巻末に、作家案内などがあって、私のような新参者には最適の一冊。この作家は通好みみたいな感じで語られることが多いけれど、例えば吉行淳之介が主流で小沼丹が傍流という分け方も、何だかちょっと変な気がする。 |
|
 |
 |
■2005.5.7
「田中恭吉作品集」(玲風書房)。大判の、きれいな画集。古本市で見つけた。「月に吠える」にある、朔太郎の田中恭吉についての文章、恩地孝四郎の田中恭吉論、それに詳しい年譜も載っている。
若くして亡くなったことは知っていたが、23才だったとは。肺を病んで喀血したのが21才の時。ほとんどの作品は、すべて発病してから描かれたものなのであった。「月に吠える」の挿画を恩地孝四郎に依頼されたのが死の3か月前、出版された時は、恭吉はもう、この世にいなかった。
繊細な感受性がそのまま衣服を着ているような、優しさと辛辣さを併せ持った、青白い美しい青年だったらしい。それでもって、口癖は「どっちでもいい」。
寂しさで胸がつぶれてしまいそうになるほどの作品ばかり。恩地孝四郎は遺作集を出そうとしたらしいが資金難などで叶わず、その遺志を継ぐ形でこの本が出版されたのだという。 |
|
 |
 |
■2005.5.3
「月と菓子パン」(晶文社)。先月「踏切趣味」というのを読んだけれど、こちらが先に出た石田千のデビュー作。身のまわりの小さなできごとを、俳句を詠むみたいに拾っていく、ややうつむき加減のその姿はどちらの本でも同じ。「踏切趣味」は初めての場所でキョロキョロしている感じが楽しい反面、散漫だとも思ったが、こちらの本のほうは視線が定まっている感じがして、私はこちらのほうが好き。そして、そのなかでも、なじんだ場所のなじんだ風景の描写が、好き。 |
|
 |
|