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■2005.7.12
この世界には、ちょっと触れれば変化する細部がいたるところにある。それを偏愛し、依怙贔屓せよ。
「やさしさ」ではなく「柔軟さ」を身につけよ。「柔軟さ」には、ときには「やさしさ」とは対極の「残酷さ」が必要とされるが、それをも身に引き受ける勇気を持つことこそが、「柔軟さ」なのだ。
「変化」に耐えられないと思う人は「変化」に耐えられる自分を獲得せよ。「変化」などいつでも喜んで受け入れるという人は、いつでも容易に受け入れられる「変化」など「変化」の名に値しないのだと体験してほしい。教育とは「変化」の体験であり、しかも、予想を超えた何かに「変化」しつつある自分自身を発見することなのだ。
これらの言葉を読みながら、素直な気持ちで教師の言うことに耳を傾けていた学生時代に引き戻されるような錯覚を覚えた。ちょっと新鮮な気持ちになった。
「私が大学について知っている二、三の事柄」(東京大学出版会)は、蓮実重彦が東京大学総長だった時代、卒業式とかシンポジウムなどにおける挨拶や講演をまとめたもの。ほかの批評文などではあまり見えてこないのだが、この人は、何よりも教師であり、教師であることが好きなのだというのは、ちょっと意外で、でも、考えてみれば納得のいくことだった。人の心の中にあるあたたかいものに触れる喜びを知っていて、それを原動力としている。このことは、批評家としての蓮実重彦を私が絶対的に信頼してしまう、最大の理由かもしれない。 |
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■2005.7.7
保坂和志「小説の自由」(新潮社)を読んだ。「小説とは何だろう」ということを、えんえんと考え続けている本。保坂和志の小説はいつも、それを読んでいるあいだの時間そのものであり続けようとしているように思えるのだけれど、この小説論もまた、なるほど、とか、むむむ、とか、えーっ、そうなのかな、とか思いながら読んでいる時間そのもの、そうやって読んでいる私を私が体験する時間を、浮かび上がらせるためだけに書かれているように思える。だから(と、ここは順接でつないで良いのだと思うのだけれど)、保坂和志の本は、いつも読むのにすごく苦労する。
小説について、そんなにつきつめて考えたことはないけれど、私にも思うことはやっぱりいろいろあって、この本の内容については、反論したいことが、同意したいこととほとんど同じくらいの量あった。けれど反論するからには、私は少なくともこの本と同じくらいの長さの文章を書かなくてはならないのだ。そういうふうに向き合うことを、この本は要求していて、その要求はとても正当な要求だと思った。 |
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■2005.7.5
竹中労の「完本 美空ひばり」(ちくま文庫)を読んだ。
美空ひばりの十七回忌なのだという。しばらく前、テレビでは、またあの「ひばり神話」が繰り返されていた。本当に、日本国民の伝説なのだ。
この本は、あとがきを見ると、1965年に弘文社から出たのが朝日文庫に入り、ひばりの死後増補版がでて、それが、今回改めてちくま文庫から出されたという。竹中労が亡くなったのは91年。ルポライターという言葉も、最近は聞かないけれど、それでも本は生き残っていく。
本から、美空ひばりの歌声が流れていた。スノビズムを嗤いながら、大衆の頭上に輝く星を見つめる眼は、めらめらと燃えていた。 |
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■2005.7.04
「画家の手もとに迫る 原寸美術館」(小学館)。本屋さんでパラパラめくって、わーおもしろいと衝動買いしてしまう。超有名な名画ばかりが集められているのだけれど、絵の全体は小さくしか載っていなくて、部分を原寸でページの上に再現する、という趣向。画集は、しょせん実際に見る絵を超えることはできないという理屈を逆手にとった、まさに盲点をついた画集。
絵のスケールって、ほんとはとても大切なことのはずなのに、結構意識することは少ない。展覧会で見て、「え、実物はこんなに小さいの?」とか「こんなに大きかったんだ」と思うことも多いし。
原寸で見るということは、画家がどういうふうに見ながら描いていたのかを見るということだ。原寸で見るだけで、絵がまったく違って見えてくるというのは、本当に驚き。それぞれの絵についていた解説には、正直言って「私の感じ方と違う」というところも多かったけれど、でも、楽しかった。
私の場合、原寸で見ていちばん面白かったのは、ポッティチェリ。と言うのも、最近、日本画が好きで、よく図書館で画集をめくったりしているのだけれど、ボッティチェリは日本画に、ほんとによく似ているんだもの。意外と驚きが少なかったのは印象派。これはきっと、この画集で見る前にすでに、印象派の絵の見るとき、いつも近視眼的だったからだと思う。つまり私は、今までそういうふうに印象派の絵を見ていたということが証明されたということになる。印象派の絵に「すごく好き」と思えるものが少ない理由は、ここにあったのかも。 |
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■2005.7.03
ポール・オースター。とても熱心に読んだときもあったけれど、最近はあまり読んでいない。これは私の偏見かもしれないが、作家の問題意識がアクチュアルになればなるほど、作品が寓話的になっていくのが、なんだかしっくりこないのだ。これは村上春樹についても、感じていること。
さて「ナショナル・ストーリー・プロジェクト」(新潮社)というこの本は、オースターの作品ではなくって、彼がやっているラジオ番組に寄せられたリスナーの実話を集めたもの。番組ではオースターが、これらを朗読していたという。寄せられた話は、不思議な偶然のめぐり合わせや、家族の思い出や、スラップスティックなおかしい話など、いろいろ。語り手の年齢や職業もさまざま。
お話ひとつひとつは、確かにとてもおもしろい。すべて、それぞれの人のとっておきのお話なのだから、当然と言えば当然。友だちの話に耳を傾けるようにして、ごく自然にうなずいたり、笑ったり、同情したりしながら読んだ。
こういうのを読むと、アメリカ人って物語を語るのが本当に上手だなと思ってしまう。ちゃんと手を入れられた文章にされて活字になったものを読むから、そう思えるのかな。でも、日本人はこういうふうに、自分の身にふりかかったエピソードを語ることはできないと思う。それが日本人の国民性なのか、日本語の構造によるものなのかわからないけれど。でもやっぱり、言葉と自分との間に持っている距離感というか、その間にある空間の捉え方が、日本人とアメリカ人では何か決定的に違うのだと思えてならない。このことはもちろん、日本の小説とアメリカの小説の成立の仕方の違いに大きく関わっているに違いないのだけど、そこまでつきつめて考える余力もないままに、楽しく読み終えてしまった。 |
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■2005.7.1
「ジム・トンプスン最強読本」(扶桑社)。
国内外のジム・トンプスン論、年表や書誌情報などがまとめられた一冊。映画との関わりにも詳しい。たくさんの作品を読んだわけではないけれど、すごく心に残る作家だったので、彼のことが知りたかった。彼のキャッチフレーズ「ダイムストアのドストエフスキー」のきっかけとなったエッセイ(ジェフリー・オブライエンという作家による)や、ナボコフとの相似を語る若島正の文章なんかもおもしろかったけど、やっぱり、2篇収められているジム・トンプスン自身が強く興味をひく。とくに「酒びたりの自画像」という短い自伝的小説では、アルコール依存症と借金を背負いながら職を転々とするさまが、ストレートに綴られている。八方ふさがりの自分を嘲りつつ、でも誇り高く、ちょっと泣けた。
フォークナーが純文学でジム・トンプスンがエンタテイメントというような文学の分類にはいつも疑問が残るが、考えてみれば、文学というのはそもそも、文学という領域から微妙にはずれたものの集まりであるに違いないと。
ポートレイトでは、ジム・トンプスンはおだやかな笑顔をこちらに向けていた。それが印象的だった。 |
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