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■2005.8.22
古川日出夫に関する評判は、ときどき耳にしていて、まあ、そういう評判も当てにならないことも多いので鵜呑みにはしないのだけど、彼に関しては気になっていたのだ。だって、どの人もみんな、ちょっと本気で誉めているのが伝わってくるから。ほんとは「ベルカ、吠えないのか?」という作品を読もうと思ったのだが、初めての作家のときは、ついつい短篇集のほうを手にとってしまう。読んでみて、もし合わない作家だった場合、長編だと最後まで読み通すのが苦痛になるが、短編ならば多少は楽だから。つまらなければ、途中で読むのやめればいいのにと自分でも思うのだけど、これが案外むずかしいんだな。
この「gift」(集英社)は、何というか、ちょっと不思議な体験、いや、体験とは限らなくて、アイディアとかが、たくさん標本箱に入っているような一冊。短篇集というより、ショートショートの味わい。とにかくユニーク。想像力が脱臼おこしてるみたいな。文体も、多分相当変わっていると思うけれど、内容にしっくり合っているから、ごく必然。「もう一杯、おかわり」という気分。 |
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■2005.8.21
高橋新吉「海原」(青土社)。この詩集を手に取ったのは、ふとした、できごころ。
最晩年に出されたものであろう、入院生活や死を題材にしたものが目につく。最後のほうには、禅についての短文が二本。
最初読んで、いいと思った詩もあったけど、ちょっと手抜きの感じがしたりして、物足りない詩も。でも、二度目に読んだら、なんか、そういうのもひっくるめていいな、と思えてきた。なんか、じたばたしたり、腹くくったりして。うそぶいたり、おちこんだり、ほほえんだりして。覚めたり、眠りこんだりして。なんか、まるごとそのままで、いいんじゃないかと思えてきた。高橋新吉の年表にはきまって「晩年には禅に傾倒」とか書いているけど、それは、こういうことだったのね。なんか、いいね。 |
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■2005.8.19
午前在宅。雨ふる。午後書を読み文を草す。夕、古本市にて「寸心日記」を求む。八〇〇円也。夜打坐。閑思閑読閑食を厳禁せよ。‥‥なんてね。
かわいいアテネ文庫の「寸心日記」。明治30年から43年までの、西田幾多郎の日記。日記というより日録。学校へ行ったり、坐禅したり、テニスをしたり、ファウストを読んだり、子どもが亡くなったりしたことが、そっけない記述で書かれている。よい音楽を聴いているようで、楽しい。 |
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■2005.8.16
乙一「GOTH」(角川文庫)。単行本のときは1冊だった連作短編が、2分冊されて文庫化。なかなかの商売上手さん。ふとした好奇心から1冊買って、あっという間に読み終え、次に本屋さんに行ったときは、催眠術にかかったみたいに、もう1冊も買ってしまった。思うつぼ。
乙一といえば、本屋さんのミステリのコーナーではいつも平積みになっているけれど、これがメジャーになるきっかけとなった記念碑的な作品だったらしい。
ごくごく普通の高校生を演じながら、でも、世の中に強烈な違和感を抱き、その違和感を支柱にして生きているような僕と、黒い服と長く黒い髪に身を包み、同級生とは決して交わろうとしないクラスメイト。このふたりの周囲で起こる猟奇的な事件。ふたりは、それらの事件の中心にある猟奇的な欲望に猛烈に惹かれながらも、賢明な距離はキープする。なぜ欲望や衝動の渦中に飛び込まずに、でも、いちばんいい席でそれらを見つめ続けるのか。このことが、この本の底深くに流れているテーマのような気がする。
著者も「あとがき」で率直に書いているように、小説としてはつたないところも多いのだけれど、日常世界がフラットに見えれば見えるほど、死や痛みへの渇望が強くなる、その制御しがたい感覚には説得力がある。まだ無防備で疎外感の強い年齢の読者は、きっと、私なんかとは段違いの強い共感を感じるのだろうと思った。 |
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■2005.8.13
町田康「告白」(中央公論新社)。新聞のレビューで、「熊太郎はボヴァリー夫人だ」というのを読んだが、まさにその通り。
「己の思弁と己の言葉が一致したとき己は死ぬ」とごく若い頃に直感した男、熊太郎の一生。つまり、そういう齟齬を自覚してしまった者必然のパターンとして、熊太郎は世間でうまくやっていくことはできず、落ちこぼれとして、博打で負けて借金したり飲んだくれたりしながら、うろうろと生きていくのである。近代的自我に目覚めてしまった熊太郎の悲劇は明治初期だが、その滑稽とも言える苦労のさまが、150年後を生きる私たちにもまったく他人事ではなくて、読んでいてこれほど心が痛くなるという事実に唖然とする。言葉に目覚めてしまった者を襲うのは「恥ずかしい」という概念であり、日本の近代の小説なんて、この「恥ずかしさ」のみに執着してきたと言っていいかもしれない。そんな七転八倒のもがきの挙げ句として熊太郎の場合は、10人の人間を殺して自殺するという末路を辿るのだが、それは極端な例としても、人生の最後における叫びは、熊太郎とそんなに変わらないかもしれない。すなわち、「あかんかった」のひとことである。 |
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■2005.8.2
「黒い夏」(扶桑社ミステリー)。ジャック・ケッチャムという作家の作品。ノワールもの、というのか、猟奇もの、というのか、かなりヘビーな小説だった。一気に読んだけれど、約600ページもの間、すっかり気が滅入ってしまった。
本の終わりにある解説では、みんながケッチャムの作品を、悪趣味とか残酷とか不快とか言う、という話から始まって、今まで翻訳された他の作品が、どんなに重苦しくて残酷な作品かという紹介が繰り返される。一度読んで、もう二度と読みたくないという人が大勢いるそうだ。もちろん、それなのに、これほど多くの読者に受け入れられ評価されているのはなぜか、というのが、この作家の核心なのだが。
この「黒い夏」で、読んでいて苦しかったのは、殺人の場面のリアルな描写よりも、人の心のなかにある残酷さを描写した箇所だった。10人ほどの登場人物たちそれぞれに視点を移しながら、物語を編み上げていく手法をとっていたが、ちょっとした会話をとっても、この作家は、人間のことをよくわかっているなと感嘆してしまう。私たちがいかに見栄っ張りで傲慢かということを、そして、私たちの動作や語ることのほとんどは、弱くて醜い自分を隠そうとするとっさの防御反応に過ぎないことを、本当によく知りぬいているのだ。
他のケッチャム作品も読んでみたい気が、まったくないわけではないけれど、やっぱりちょっと勇気と覚悟が必要だなあ。んー。 |
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