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■2005.9.26
「ポップ中毒者の手記(約10年分)」(大栄出版)。映画や音楽中心のエディター兼ライターの川勝正幸が、雑誌などに発表した文章をまとめ、10年分のポップカルチャーを俯瞰する、という趣旨の本なんだけど、なんと初版が1996年の本なんだよね。だから取り上げられている話題は、大体1985年から95年の10年分なのだ。
こういう本は、旬の季節に読まないとだめなのでしょう、きっと。結果的にそういう時間のものさしをまったく無視してしまう自分の読書傾向に、さすがに今回は自分でもあきれた。同時代に向けて放たれた言葉は同時代に受け止めてこそ、価値がある。‥‥でも実は、この分厚い本でたっぷりと楽しい時間を過ごしたことを正直に告白しなくては。
CTPP論やセルジュ・ゲンズブールのインタビュー、ツイン・ピークス、フランク・ザッパなどなど。知ってることも、知らないことも、たくさん。特に胸打たれたのは、デニス・ホッパーに関する一連の文章とジョン・ウォーターズ論。この本の登場人物たちは、みんなドクドクと赤い血が流れていて、それに比べたら、今のカルチャーの担い手たちは少々貧血気味という気がしないでもないが、ポップとは、本来的にそういうふうに拡散していくものなのかもしれない。
というわけで、10年単位で季節感を無視した読書をする自分の無粋さは、とりあえずは黙認しようという結論に達しました。 |
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■2005.9.20
「ひまわりの海」(求龍堂)は、舘野泉のエッセイ集。このピアニストが、こんなに筆の立つ人だということを、私は今まで知らなかった。本の前半は、1872年南仏に生まれ、わずか49才で亡くなったセヴラックという作曲家についての、楽しげな話から始まる。世界各地を旅しながら、ジャンルを問わず、有名無名を問わず、自分が好きだと思う音楽を心から楽しみ愛し抜く様子は、高名なピアニストというよりは、音楽が好きで好きでたまらない、ひとりの人。
そして後半は、地元フィンランドのリサイタルの際、、脳溢血のため舞台上で倒れてからの顛末である。しばらく療養すれば復帰できるだろうとの期待が徐々に裏切られ、右半身不随の厳しい現実を受け入れていくまでの様子は、とても理知的で控えめな筆の運びで、だからこそ、このピアニストの受けた試練が深く伝わってくる。特に、再起するなら両手で弾けるようになってから、という発想を捨て、左手だけで弾くピアニストとして再生していく姿は感動的。「左手だけというのは悔しくありませんか、辛くありませんか」という問われたとき、「確かに悔しい気持ちがないと言えば嘘になる。でも、音楽に触れあえる喜びがそこにあれば、心は満たされ、一切の不足が消滅してしまうのだ」という意味のことを答えるのだ。
病に倒れた彼に向かって、あまりにも多くの人が「ラヴェルの左手のための協奏曲があるじゃないか」と安易な励ましを言うことが腹立たしく、ずっと避けていたが、少しずつコンサートを重ね本格的な再起を果たすうちに、そのわだかまりがほぐれ、この曲に向かい合うところで、この本は終わる。今年の5月に横浜のコンサートホールで私が聴いたのは、まさしく舘野泉の演奏によるラヴェル作曲「左手のためのピアノ協奏曲」だった。ぐるりとめぐった線が結ばれて、ひとつの輪になった。 |
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■2005.9.15
「ぼくの伯父さんの喫茶店学入門」(ブルース・インターアクションズ)。時間つぶしに入った古本屋さんで買った。奥付を見ると、もう4年前の本で、いわゆるカフェブームの火付け役アイテムのひとつと記憶しているのだけど、ちょっと前流行ったものに漂う悲哀感みたいなのは、ほとんどなくて、なかなかいい雰囲気を持ったコケティッシュな本なのでした。趣味人っぽさも、ほどよくて、細部に小さな工夫もたくさんあって、コーヒー色に染まりながら、のんびり読みました。
私も、この本に載っているような、こじゃれてない喫茶店が結構好き。昔、何度か通ったいろんなお店をいくつか思い浮かべ、「あのお店、今もあるのかなあ」とか「店主のおじいさん、元気かなあ」なんて、しみじみした。 |
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■2005.9.7
「インテリア・オブ・ミー」(PARCO出版)。近代ナリコのはじめてのエッセイ集とのこと。いろいろな雑誌に書かれた文章を集めたのと、書き下ろしも少し。
ちょっと変わったタイトルだけど、インテリアというのは、私流に解釈すれば、「女性をとりまくすべての物質」かな? 近代ナリコは、いろんな小説や映画のなかから、こまごましたもので部屋を一杯にする女性や偏執的にインテリアにこだわる女性などを、何人も取りだして見せる。そこには(中心からだいぶ離れてはいるが)、たくさんの古本やその他のものに取り囲まれている自分自身も含まれる。所有する「もの」によって自分を地上につなぎとめておく、あるいは、集積された「もの」によって空間を作り、それを自分のアイデンティティのよすがにしていく――そういうイメージは、確かに近代以降の、女性の姿をうまく表しているかもしれない。
この人の文章は、決して読みにくいわけではないが、読んでいく気持ちよくなるポイントを微妙にはずしてゆく、その感じが独特だ。それはほとんど、含羞からきているのではないかと私は推理するが、この含羞こそが、私が近代ナリコをどこか信頼してしまう最大の理由なのだ。 |
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■2005.9.5
「脱力の人」(河出書房新社)。詩人の正津勉が、ひとくせある詩人(じゃない人もいるけど)たちを紹介。ラインナップは、天野忠、和田久太郎、尾形亀之助、淵上毛銭、鈴木しづ子、辻まこと、つげ義春で、彼らとの出会いを軸にした正津自身の鬱々とした青春記にもなっている。舞台は1960年代の京都。つまり、これらの面々が意味するのは、当時、学生たちが夢中になっていた吉本隆明や埴谷雄高や谷川雁らとは無関係の場所にいたということ。言ってみれば、彼らは正津の、裏ヒーローたちなのだ。
私の知らない人もいて、ふんふんとおもしろく読んだのだけれど、、読み終わってふと考えてみれば、どの人も「脱力の人」の呼び名とはほど遠いイメージしか残らない。これは、著者が「脱力系」という用語を微妙に誤解しているせいなのか。
脱力系、と言えば、今の吉本隆明が、いちばんぴったりだと思うけど。もちろん、これは誉め言葉です。 |
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■2005.9.3
「生きているのはひまつぶし 深沢七郎未発表作品集」(光文社)。
黒とピンクの鮮やかな表紙。帯には、女性のおっぱいの横で満面の笑みを浮かべる深沢七郎。
この本に載っているのは、倉庫で発見されたという未発表のエッセイ2編と、語り。語りのほうの原稿が、どういう状態で、どこで保管されていたのか、誰が聞き手だったのかというような情報が、本のなかのどこにもなくて、それがちょっと不満。でも、内容のほうは、「肉声が聞こえてくるような」という表現がぴったり。体温がじかに伝わってくるような語りが再現されている。
白石かずこによる「あとがき」が、友情のこもった感動的な深沢論になっていて感動的。「楢山節考」から半世紀経ちましたね、今は日本中が楢山(姥捨)になりました、あなたは予言者ですね、と深沢に語りかけている。 |
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■2005.9.1
書肆山田から出た、ぱくきょんみ訳の「ちきゅうはまあるい」は、私がもう20年来愛し続けている本なので、この「地球はまるい」(ポプラ社)を本屋さんで見つけたときは、嬉しいだけじゃなくって、ちょっと複雑な気分。
日頃、本を読むときは、なるべく偏見を持たないでまっさらな気持ちで向かい合おうとしているつもりだけれど、これに関しては、最初から最後まで、靴を右左反対にはいて歩いているような気分のまま。
ピンクとブルーは、昔、一度だけ目にしたことのある原書と近くてかわいらしかったけれど、ごめんね、私にとってはぱくきょんみ訳への愛を再確認する結果となったのでした。 |
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