■2005.10.29

「シカ星」(Web Press 葉っぱの坑夫)。きちんとフォローしているわけではないから、たんなる印象にすぎないけれど、ミヤギユカリの絵が、ここのところ、ぐんぐんおもしろくなっているように思う。これと一緒に買った「rabbit and turtle」という小さな画集も、とてもよくって、何度も繰り返してページをめくった。繊細さも、大胆さも、とっても自由。それでいて、「絵」というものが奥底に隠し持っている、不可思議な、謎めいた、怪しい感じが、なまなましく出ている。
この「シカ星」は、サブタイトルが、「アメリカ・インディアンはうたう」となっていて、彼らに伝わる物語詩をいくつか集めたもの。オリジナルは、メアリー・ハンター・オースティンという1868年生まれの作家が採話し、英訳したものということだ。なぜ「ネイティブ・アメリカン」ではなく「アメリカ・インディアン」なのかという理由は、ここによるものだろう。
一枚の大きな紙をたたんだだけの本のつくりが、楽しい。パタパタと開いて、アメリカ大陸の荒野が広がっていく。イラストの、まっ赤な色も、いい感じ。
■2005.10.22

人気の木工作家、三谷龍二のエッセイ集「木の匙」(新潮社)。タイトルとか表紙とか、思い切り直球な本である。雑誌のインタビューやエッセイなどを目にしたことは今まで何度かあって、職人でもあるような、作家でもあるような、でも、その両方から数センチ、微妙に距離を置いているような不思議な存在感を感じていた。
こけおどしの一切ない、ごく素直な文章。暮らしのふとした隙間に小さな発見を持てるような柔らかな心と、それを、たったひとりでニコニコと楽しめるような陽気さと持っている人、と感じた。眉間のしわを自分自身でほどくことのできる人こそが、大人である。
■2005.10.20

「バルテュスの優雅な生活」。新潮社の「とんぼの本」の一冊。ハンディな本に、作品もいっぱい、部屋や椅子などバルテュスの愛したものもいっぱい、タンタンやミツや犬のファンドールも登場、と、盛りだくさんの、楽しい本。
バルテュス自身が封印し、回顧展などでもめったに飾られないという、いわくつきの作品「ギターのレッスン」も載っていて、私は今回初めて見た。女の先生がその髪をつかみ膝にかかえた少女の下半身があらわになっていて、足の間に、まるでギターを弾くような手つきで指をのばしている。すてきな絵。見ているとドキドキするけれど、不安で消えたくなるようなドキドキではなくって、命あるあたたかいものと繋がっているような、熱く、豊かなドキドキなのだ。
私の妄想ヴァリエーションのひとつに「もし大富豪だったら、どんな絵を買うか」というのがあるけれど、そのリストに、バルテュスは絶対入れよう、と再確認した。巻末の年表によると、2008年からスイスを皮切りに大回顧展が回る予定らしい。日本にも来るといいな。
■2005.10.16

「月の輪書林それから」(晶文社)。
唐突に現れた、「月の輪書林」の続編。何だかとっても相変わらずなのが、嬉しい。静かな文章の陰に隠された、静かな情熱、無限の好奇心。このねばり強さが、日本の本の文化を土台で支えてくれているのは、間違いない。
前作の「ガールフレンドのミオちゃん」は、「妻の美央」になっていた。私の家の近くの古本屋の主人も、再び登場。歴史の専門書が中心の店で、だから私が買い物することは少ないが、いつも不機嫌でもなく、特別愛想よくもなく、あの主人が奥に座っている狭い店は、不思議と居心地がよい。特別に言葉を交わしたこともないが、本の中の姿を重ね合わせて、ひとり楽しんでいる。

■2005.10.13

デザイナー小泉誠の本。白くてかわいらしい本。TOTO出版刊。作品の写真とその解説、には違いないのだが、自身の解説の、その言葉使いが、一般の視点から決して離れない。「一般の」というのは、デザイナーという職業ではないということでもあるが、人生の土台をつくるものとして、生活の場を持ち、おいしさや温かさや快適さを味わい、ものを買ったり、使い古したり、壊してしまったり、という経験の蓄積が自分のなかにある人、という意味。そこから離れない、ということが、このデザイナーの最大の強みなのかもしれない。「どうしてこういう形をしているのだろう」「もっと、こうだったらいいのに」。そんな心の働きに従うことから、デザインのジャンプ力も生まれる。
ちょっと変わったタイトル「と/to」というのは、デザインというものは誰かとどこかでするものであり、それを何かへ、何かのためにと、繋いでいくものだ、という小泉の考え方から。
で、この本の最大の特徴は、ページをめくるごとに、本をくるくる回しながら読む構造になっていること。文字の向きが順繰りに変化してゆくのだ。使うほうに、そんな思いがけない運動を強いてしまうところが、さすが。著者やデザイナーが楽んでいる様子や、印刷や製本の人たちが戸惑っている様子が目に浮かんで、ちょっとおかしい。

■2005.10.10

リチャード・ブローティガン「不運な女」(新潮社)。
とびらのページをめくると、エウリピデスの「アウリスのイーピゲネイア」からの引用。ギリシア悲劇。父親が娘を生け贄に捧げる話だ。そして、文末に「R」のサインがある一通の手紙。友人の女性が亡くなったという報告の手紙。38才で、がんだったとある。
そして再び「不運な女」とだけある、とびらページがあり、ストーリーが始まる。ストーリーの最初は、ひとつのシーン。ホノルルの交差点の真ん中に、女ものの靴が片方、転がっているという情景。
ここまで目を通しただけで、私は自分の心臓が、重みを増して胸の奥深くに沈んこんでいくのを感じる。切り離された現実の断片が、目の前に忽然と現れる。ここに置き去りにされた靴は、失われたもう片方の靴の不在そのものだ。いや、失われたのはこちらの靴だというほうが正しいだろう。もう片方は、今もまだ、現実世界とつながった場所で呼吸しているのかもしれない。死の気配を帯びた不穏な空気。これから、この本の中で起こるはずの、つらく、やるせない出来事へのおののき。
意味のないことのなかに潜む意味。語られずに、消え去ってしまうものの重さ。
ほとんど残酷なほどの手つきで、その、裂け目に手を突っ込んでいるような小説だと思った。
訳者のあとがきによると、アメリカやフランスでこの作品が発表されたとき、究極のブローティガン文学だとする声と、不満を述べる声と、さまざまだったらしい。私にとっては、今まで読んできたブローティガン作品へともう一度導いてくれるような小説だった。この本を読みながら、前に読んだ詩や小説を断片的に思い出し、「ああ、そういうことだったのね」「そう、あなたは、そんなに哀しかったのね」「あの小説でやろうとしたことは、そういうことだったのね」と、語りかけていた。「最後の作品」というドラマ性を差し引いたとしても、ブローティガンという人間をかたちづくっていた要素のひとつが、まちがいなくここにはある、と思えた。

■2005.10.3

2才か3才の誕生日に飛び出す絵本をもらって、私はその本をこよなく愛していた。その後引っ越しのどさくさの際になくなったか、あまりにも繰り返し見ていてボロボロになったのを両親が捨てたのか、今はもう、手元にない。それで私は幼くして母親を失った子どもが、永遠の母親像を求めるみたいに、飛び出す絵本を見ると、手に入れずにはいられなくなってしまうのだ。
今日、私の飛び出す絵本コレクションに仲間入りしたのが、「ヴェルサイユの庭園」というこの一冊。正確に言うと飛び出すのではなくて、「のぞきからくり絵本」。1830年のものの復刻版とのこと。レトロな雰囲気が、とってもよい。
アコーディオン状に畳まれたのを、ぐいとのばして、一番手前の覗き穴から見ると、宮殿へと長く続く道をそぞろ歩く人々や馬車の雑踏が立体的に見え、はるか向こうのほうに石造りの大きな門が見える。