 |
■2005.11.23
「パゾリーニ・ルネサンス」(とっても便利出版部)。
最近レンタルビデオでパゾリーニ作品を何本か見て衝撃を受けた。この作家については断片的な知識しかなくて、その悲惨な死に方に象徴されるような、激しい人生を送った人、という印象ばかりが強く、だから、もっとやぶれかぶれな、力まかせに突き進んでいくような映画を想像していたのだが、実際は、その正反対。きわめて高貴な美しさを持った映画ばかりだったので、一体これはどういうことだろう、とこの本を手に取ったのだ。
本文中の四方田犬彦と浅田彰の対談で、ゴダールの映画が成功作とか失敗作とかいった評価を超越して「ゴダールの映画」としか呼び得ないのと同様、パゾリーニの映画も「パゾリーニの映画」としか呼び得ない、という意味のことが言われていて、本当にその通りだと思った。
うかつなことに、大昔の作家みたいなイメージを持っていたが、驚くべき事にパゾリーニの生まれは1922年。生きていれば83歳。サルトルが今年生誕100年というから、サルトルよりかなり下。ちなみにゴダールは1930年生まれ。8つしか違わない。ほんとに、パゾリーニは、もっと長生きすべき人だったんだと思う。 |
|
 |
 |
■2005.11.18
「林檎の礼拝堂」(集英社)。田窪恭治という美術家が1990年代に行ったプロジェクトのドキュメント。それはフランス、ノルマンディのある村にある、廃墟のようになって使われていなかった小さな礼拝堂を作品として復元した、その記録である。プロジェクトは日本とフランスの企業のメセナの形で行われたもの。田窪自身の文章による記録と多数の写真で、この本は構成されている。
田窪は、実際に工事に着手する3年前に家族と一緒に現地に移住し、実際の工事に3年、一応の完成を見てからなお、この本の出た1998年末に、まだひとりで手を入れ続けているとあったので、足かけ10年のプロジェクトである。経費は3億円。
礼拝堂は、小さいけれど16世紀に建てられた歴史ある、大切な建物だった。遠い国から突然やって来た田窪に、最初は戸惑いながらだんだんと村人たちが受け入れていく様子、礼拝堂の生きてきた歴史、資金調達の苦労(途中でバブルがはじけて小口の資金支援を募った)など、田窪をバックアップする多くの職人たち、そしてもちろん、田窪の表現上の試行錯誤も含めて、プロジェクト完成までのさまざまな出来事が、どれをとってもおもしろい。それは、何より文章の書き手である田窪自身が、さまざまなトラブルを正面から受け止めて、ひとつひとつ解決し、素直な心で感動したり喜んでいるさま、そして「芸術」をその身に背負いつつ、常に「なんで私はこんなことしているんだろう」と問い返す姿が何とも美術家らしくて、さわやかだからだと思う。
この本を読んだら誰でも、この建物を実際に見たくなってしまう。だって、カラフルなガラスの瓦を通した光が床におちるさまも見てみたいし、何よりも、内部の壁面に描かれた林檎の絵が、本当に本当に美しいのだ。 |
|
 |
 |
■2005.11.12
金井美恵子の新しい本「スクラップ・ギャラリー」(平凡社)。ルソーやらアンジェリコやら、李朝の民画やらジョセフ・コーネルなんかの絵がたくさん載っているのが、あまりに楽しそうで買ってしまう。「空想の美術館」金井バージョンとも言えようが、あとがきで金井自身は、本家のマルロー版は読んでも見てもいないと書いている。
例えば映画について語るときに比べれば、絵についての文章は、ちょっと投げやりだったりいいかげんだったりして、つまり、絵は好きだけれど映画ほどの執着がない、ということなのだろうが、その感じも、また楽しい。
冒頭には長谷川りん太郎という画家の猫の絵。この画家の名は初めて知ったのだが、そのトラ猫の絵は、金井美恵子の目にとまらぬはずがないという感じの傑作だ。一方、ポロックやベーコンも取り上げられているけれど、彼らのことは、あまり好きではないらしい。というか、はっきりと嫌いだと書いてあったりする。なるほど、わかるわかる、と、にやにやしてしまうのであった。 |
|
 |
 |
■2005.11.5
美術館で若林奮展を見て、そこで「I.W――若林奮ノート」(書肆山田)というこの本を買った。若林奮の作品をちゃんとまとめて見るのは初めてで、私は2年前にこの人が亡くなったことさえも知らなかった。この展覧会は、この作家が一生をかけて見ようとしたもの、考えようとしたもの、表わそうとしたものが、透明なままでそこにあるような、いい展覧会だった。ぎゅっと絞り込んで貫いてゆく。でも、息苦しくはない。この本は、若林の死の直前につくられたもので最後の執筆や編集を残したまま、世を去った。
前半は、数多くのフランスやスペインにある遺跡や洞窟の訪問の記録になっている。感情的なことや情緒的なことはほとんど書いていなくって、目に入ったものが、そのままたんたんと綴られる。画家は、遺跡の上に地層として積み重なった泥や石を見る。遺跡へと続く道の地形を見て、自分が包まれている空間の気候を見る。遺跡のなかに隠された時間をことさらに見出そうともせず、ただ、かつてはあって今はそこにもうないものを感じているだけのようだ。
画家の書く文章はいつも、「見る」という行為をむき出しにしたり、あぶり出したり、浮かび上がらせたりして、読むたびに私は、こことは違う世界へ誘われる。「見る」ことを意識すると、見えるものが変わるのではなく、見ている私が変わる。世界を見ている私は、世界に見られている私になり、そのことにとまどいと喜びを感じる。
この本のなかで若林奮が見ているのは、山や木や雨や光だ。それらを空間としてとらえる。彫刻の向こうにあるものを見ながら、彫刻をつくる。それらが、なぜこんなに美しいか、ということこそが問題だ。 |
|
 |
|