■2005.12.28

リリー・フランキー「日本のみなさんさようなら」(文春文庫)。
単行本が出たときに読みたいと思って読みそびれた本。できれば文庫本ではなくて、あのオレンジ色の装幀のまま読みたくて、古本屋さんなどでときどき探していたがめぐりあえず、ふと魔が差した。帯に「『東京タワー』で注目のリリー・フランキー、心の風景」とあったが、何か違う気がする。この本にある批評こそが真に評価されるべきではないのか。
ずっとニヤニヤしながら読んだ。おもしろかった。もともとは、ずっと「ぴあ」で連載していたものだが、連載ものは、ときどき、テンションが上がり下がりするので、それも楽しみ。でもリリー・フランキーの場合、テンションが下がっているとき(書くネタがないとか、締切がせまってるとか、気分がのらないとか、理由はいろいろなんだろうが)、ふと「まとも」になる。そこへ行くと中原昌也は、どんなにやる気がないときも決してまともにならない。そこらへんに、うっすら才能の差を感じてしまった。
■2005.12.26

今年の1月から、友人たちと一緒にブログを立ち上げ、それぞれ観た映画の感想を書いていくというのをやっていた。映画というか、DVDだけど。感想を書けたのは観た本数の3分の1ほどだが、おもしろい映画にも怖い映画にもたくさん出会えたし、人の文章を読んで同じ映画からまったく違う感想が出てくるのに驚いたり、たくさんの刺激を受けた。ブログっていっても、トラックバックもほとんどないし、まあ交換日記のようなもの。来年は、やっぱりもっと本を読みたいので、このブログは今年で終わりにしようと思っているのだけれど。
そんなこともあって、この1年間、この「フランソワ・トリュフォー映画読本」(平凡社)がずっと机の上にあって、仕事の合間などにパラパラとページをめくっては、拾い読みしていた。トリュフォーの作品を年代順に並べ、映画の詳細なデータとともに著者の山田宏一の紹介文があり、そのあとに、トリュフォー自身がその映画について語るインタビューが紹介されている。雑誌記事なども細かくフォローされた精魂込めてつくられた本なのだが、何よりも660ページ以上の厚さがあるこの本のどこを開いても、傷口からまっ赤な血がわーっと広がるみたいに、トリュフォーらしさがあふれ出てくる。まっ赤な血といっても、凄惨なイメージじゃなくて、華やかで官能的で、生きて呼吸しているような感じ。じっと見ずにはいられない感じ。
いちばん最後にあった、トリュフォーへの追悼文に「彼は愛の映画作家であった」という言葉があったけれど、彼の映画も愛であったし、彼自身も愛であったのだと、この本を読んで思った。愛について私たちは、いくら言葉をつくしても決して語り尽くしたと思えないのだから、私がトリュフォー映画を見て「どうして、こんなに……」と絶句するだけであってもそれは当然のことだ、と自分に言い訳する。
■2005.12.18

福音館の月刊絵本「たくさんのふしぎ」は、ときどき、とってもおもしろい。先月号の虹についての本もおもしろかったけど、今月号は、植田正治の写真。「かくれんぼ」という題でいろんな年代の写真が並べられ、岩瀬成子の言葉が合わされている。モノクロの写真たちは、人が写っているものも、いないものもあるが、どれも、濃い人の気配を感じてドキドキしてしまう。
そうなのだ、かくれんぼというのは、気配を探すという超感覚的で高度なゲームなのだ。隠れているものが実はどんなに雄弁であるかを体験する。そして、「それ」が目の前に現れた瞬間、現実の膜が破られるような、あの感覚を体験する。
大人も子どももみんな、もっとかくれんぼをするべきだね。
■2005.12.11

先日のトヨザキ本では、かなりけなされていた「アフターダーク」(講談社)を読む。別にけなされていたから読んだというわけではない。村上春樹の小説は私にとって、どこか、ふるさとのお父さん的な存在で、ある日突然ふと想い出して会いたくなったりする。
感想は豊崎由美氏と大体おんなじ。つまり、ちょっと(かなり)がっかりだけど、力業でそれなりにまとめあげてしまうところはさすが、といった感じ。でも今頃になって読むのではなく、「待望の新刊」として派手に書店に並べられていた頃に読んでいたら、フンゼンとしてしまったかも。
村上春樹の小説を読む楽しみのひとつは、曲のタイトルとか主人公が食べたものとか、猫の名前といったディテイルにある。でもたとえば、この小説の最初のほうで、主人公の若い女の子がジャズの曲を知っていることにたいして相手のジャズ好きの男の子が「今どきの女の子が知ってるなんて」と驚く場面があるのだけど、若い子がジャズ好きであることにたいして「今どき」という言葉が出るのは、やっぱりジャズ喫茶やなんかがはやっていた時代を知っている人だからこそであって、女の子とほとんど同世代の男の子から出てくるべき言葉ではない。ここで問題になっているジャズの曲のタイトルは「ファイブスポット・アフターダーク」で、だから、この小説にとって、かなり大切な場面のはずなのに、こういうふうに細かいポイントが気になり出すと、なかなかストーリーに集中できなくなってしまう。
でもね、久し振りにお父さんと会って「ああ、やっぱり、あんまり話が合わないな」なんて思っても、それはそれで楽しいし、きっとまた、それほど時間の経たないうちに必ずまた、村上春樹に会いたくなってしまうことは、まちがいないと思う。
■2005.12.3

「どうしてかわかる?」(晶文社)というこの本は、世界中の民話や神話などに登場するなぞかけ話を集めたもの。めくると答えのページになっていうクイズ本形式になっている。
どこかで聞いたことのある話も、答がさっぱりわからない話もあって楽しい内容なのだけれど、それと同時に、本のかもしだす空気が、何と言ってもよいのだ。派手でもない地味でもない、大人っぽくもない子どもっぽくもない、都会風でもいなか風でもない普遍性を持っている。ピーター・シスの絵が見事で、「ジュマンジ」を引っ張り出して、改めてしみじみと眺めた。日本語版のデザインも、とても品良く、ていねい。
着込むほどに体になじんでいくセーターみたいに、流行りすたりに惑わされない質の良さを持っている絵本。日本の子どもたちに、今いちばん足りないのは、こういう質の良さなんじゃないかと思った。
あと、野暮なことを言うようだけど、帯に「なるほど!と手を打つ、世わたりのちえ」とあったのが気になってしまった。これでいいんだっけ? 「ひざを打つ」じゃなかったっけ?
■2005.12.1

私が信頼する書評家のひとり豊崎由美さんの新刊のタイトル「そんなに読んでどうするの?」(アスペクト)は、まさに、私が人から言われ続けてきた言葉。言われるたびに「どうするも、こうするも……」と絶句するのが常だったけれど、最近は「仕事だから」と言うことにしている。仕事というのが有無を言わさぬ言い訳になるのが大人の世界の便利さであり、それがまったく見当はずれの理由であることに自分で気づいてしまうのが、大人の世界の不便さであります。豊崎女史は、あとがきで、この問いに「想像力っていう、強いチカラを身につけんの」と答えています。
豊崎レビューのベスト盤であるこの本は、もちろん掛け値なしにおもしろい。書評の淫靡な楽しみのひとつは、「ほんとはけなしたいんだけれど諸事情によりほめる」とか「だめなところもたくさんあるけれど、きらっと光るものをかすかに感じるから、あえてほめておく」というような、微妙な下心とさじ加減を文章に端々に読みとっていくこと。この本に収めたレビューは、選ばれているものだから比較的ストレートに書いたものが多いのだろうが、それでも、そういう微妙なニュアンスを感じるのも、ところどころ。深読みしすぎなのかもしれないけれど、心の中で内緒で舌を出しながら、そういうのもきっと残してあるような気がする。