■2006.2.25

近代ナリコ「本と女の子 おもいでの1960-70年代」(河出書房新社)。
サンリオ出版の本やフォアレディースシリーズなど、女性向けの本や雑誌を取り上げ、当時の関係者などにインタビュー。女性の文化を考察する、近代ナリコ独自の視点が、ここでもはっきり出ていて、おもしろかった。
読みながら、自分小さい頃、どんなふうに本と出会ったかを、いろいろ思い出してみたのだけど、ここに取り上げられているような本はまったく記憶にないし、宇野亜喜良や内藤ルネなども、イラストを目にしたことはあったのだろうが、ちゃんと認識したのは大人になってから。うん、そうそう、子どもの私にとって宇野亜喜良の絵は、「大人っぽくてちょっと怖い絵」だったし、その印象は、今もどこか変わっていない。年代からいって、サンリオの洗礼は受けていたにしろ、「かわいい」ということが自分の感性の中である幅を占めるようになったのも、むしろ大人になってからという気がする。これは、私が特別なのか、それとも単なる時代のせいなのか。いちご新聞に載っていたポエムとか、「チッチとサリー」とか、あういう甘いものは苦手だったなあ。近代ナリコの言う「レディ」とか「ガール」といった要素を自分の中に見出したのは、ここ数年、という気さえする……、そういえば、母親も「暮らしの手帖」読んでなかったから、ずっとその存在を知らなかったし、今、注目を浴びているレトロなものとはまったく無関係な幼少期だった……そんなふうに、えんえん、しみじみと回想してしまったのでした。
■2006.2.22

桐野夏生「グロテスク」(文藝春秋)。
女による、女のための、女のノワール小説。東電OL殺人事件をモチーフにしているが、殺人事件などという目に見える現象は、むしろ小さいものに見えてくる。この小説の主役は、人の心の奥底に潜む目に見えない悪意なのだ。
自分よりうまくやっている人をうらやむ気持ち、妬む気持ち、見栄と虚栄心、プライド、自分の持ち物を人にあげるときに惜しむ気持ち、人を馬鹿にする気持ち、自分の価値を低めるものすべてに対する反発と敵意。彼女たちの内面にうずまくそれらの悪意が、これでもか、これでもか、と徹底的に描写されていて、そのボルテージの上昇に従って、自分自身の中にある同様の悪意が共鳴を始める。そして、共鳴は痛みをもたらす。その痛さにギブアップしそうになるのだが、その度に小説が追いかけてきて私の首根っこをつかみ、「あなた、ここから逃げるわけ?」と嘲笑する。仕方なく私は、再び、立ち向かっていく。その繰り返しで、530ページ2段組のボリュームを読まされてしまった感じ。
登場人物たちのキャラクターは確かに誇張されているけれど、心の動きは、本当にリアル。小説家の仕事は人の心を描くこと、という当たり前のことを、改めて思い返してしまった。
■2006.2.17

通りがかりのカフェやブティックに入ってみたら、お客も店員も10代かせいぜい20代前半といった人たちばかりで一瞬焦るっていうことがたまにあるのだけど、でも、意外と私はそういう場所にいるのが好き。流行りもので値段の安いものを一心に求める若い子は、カフェでもったいぶったコーヒーを啜っている大人よりも、たくさんのことを私に教えてくれる。
「I LOVE YOU」(祥伝社)なんてタイトルで、かわいらしいプラスティック雑貨のような表紙のこの本を読み始めたときは、そんな若い子だらけの店に紛れ込んでしまったような気持ちだった。今をときめく6人の男性作家による、ラブストーリーのアンソロジー。恋の切なさに身もだえするのは、今や、女の子ではなくて男の子の本領なのだ。読んで一緒に身もだえするのはちょっと難しかったけれど、テレビドラマを見ているような楽しさがあった。伊坂幸太郎、中村航、本多孝好など、いつかは読まなくてはと思っていた作家たちの作品をつまみぐいしたみたいで、ちょっと得した気分。
■2006.2.13

久し振りに古風な小説を読んだという気がした。ヘッセ「クヌルプ」(新潮文庫)。
生まれて初めての淡い恋が、初恋特有の相手の心ない仕打ちによって破れたあと、そのショックから人生のコースをはずれて旅職人となり、友人の世話になったりしながら放浪を続け、最後には病気になって旅の途上で死んでしまったクヌルプという名の男のお話。
訳者の解説には、人生の落ちこぼれとなったクヌルプが、漂白の人生のなかで、自然と人生の美しさを見出し、本当の意味での芸術家になったのだとあったけれど、本当にそうなのかな?
もともと頭もよくて、人を惹きつける魅力のあったクヌルプは、お金も尽きてどうしようもなくなってお人好しな友だちの家に転がり込むときも、巧みな会話運びで相手の優位に立つ。そして、自分が施しを受けているという状況を、微妙にねじ曲げる。友人の妻も、ボロを着た惨めな姿のクヌルプに興味を示す。気はいいけれど平凡な夫との変わりばえのしない毎日に退屈していたところへ舞い込んだ異人だからでもあるし、クヌルプが、人の関心をかうことに長けているからでもある。しかもクヌルプは、そんな妻の心の動きを知っても、さえない中年女の気持ちを冷淡に無視する狡猾さやプライドも持っている。
ヘッセは、内省的で理想主義で頭もよく回る、そんなタイプの人間の持つ疎外感や自意識や虚栄心を、ちょっと毒をこめて描いていて、そこがおもしろいと感じた。最後に、吹雪に倒れたクヌルプのもとに神様が現れてそんなクヌルプのすべてを受け入れ許し、彼が穏やかに死んでいくという現代の小説にはありえないような結末も、何だか悪くなかった。
■2006.2.10

高田宏「猪谷六合雄」(平凡社ライブラリー)は、日本スキー界の草分け的存在であり、オリンピックにも出た猪谷千春の父親である猪谷六合雄を紹介する本。サブタイトルに「人間の原型・合理主義自然人」とあるが、「雪に生きる」「雪に生きた八十年」という二冊の著書をもとに、このユニークな人を紹介している。著者が、この猪谷六合雄の人柄や生き方に惚れている感じ(猪谷に直接会ったことはないと書いてあるが)が出ている、気持ちのよい本なのだ。
猪谷六合雄は、まだスキーが日本に入ってきたばかりのころから、お手製のスキー板やジャンプ台を作ったり、生まれ育った赤城山をスキーで駆け回ったりし、そんなことを、そのまま一生続けたような感じの人なのだ。生涯お金のために働くことはせず、ほとんどずっと放浪生活だったけれど、それも、人生哲学とかからではなくって、自分に素直に生きたら、結果的にそうなってしまったといった具合。冬を中心に人生をめぐらせる野性そのままの人のようでもあるが、自分のやりたいことをするためには、驚くほどの合理精神を発揮する人でもあり、スキー靴下に興味を持って編み物に没頭したりもした。開け放った五官で自然を感じ、そのおごそかな秩序の前に、魂を震わし、頭を垂れる人でもあった。それからつけ加えるなら、志賀直哉の短編「焚火」「赤城にて或日」のモデルでもあるという。
とくに印象に残った部分は、ここ。――「朗らか」ということが、猪谷六合雄にとっては何より大事なことだったようだ。「正しい」も「美しい」も、それが「朗らか」であるとき、はじめて意味を持ってくる。スキー競技も朗らかでなくてはつまらない。小屋をつくるときの条件もまず朗らかであることだ。生きることそのものが、朗らかでなければ無意味なのだ。
■2006.2.3

「孤島」(筑摩書房)というこの本には、最初にカミュによる序文がついている。著者のジャン・グルニエはカミュの師匠。ふむふむと思って読み始める。自分にとってこの本が決定的な意味を持つということが、過剰なくらい熱い言葉で語られていて、いくらこれが先生の著作だからって、ちょっと大げさすぎるのでは、といぶかしく思うほどだった。
けれど、本文に入り始めたとたん、私は、ずぶずぶとページのなかに引きずりこまれた。訳者や家族とともに写っている口絵のスナップ写真を見れば、こんな猥雑な東洋の片隅に生きる私と何らかの関わりを持つことなど、到底想像もできないような、癖のある風貌のフランス人のおじさんだ。思想界の重鎮という立場が似合わないわけではないが、たたき上げの職人のようにも見える。そんな人から何十年も昔に発せられた言葉が、この私を今こうして、これほどまでに激しく揺さぶることに驚く。たとえ、グルニエがイメージの鍵として使っている「島」が、ブルーに輝く地中海に浮かぶそれで、私が親しんでいる島のイメージとは全然違うとしても、この驚きに変わりはない。グルニエの猫、ムールーの死に涙しながら、私は私の心が、言葉のひとつひとつが発するあたたかな光に満たされているのを感じる。
読み終わって初めて、カミュが序文に「今この本を初めて読む青年を私はうらやましく思う」と書いたわけを知る。また、「現在の私がそれにはげまされて生きることができたし、東洋人としての違和を感じることもなしに思想的にも感覚的にもそれに合体することができた作品」と述べる井上究一郎の、真心のこもった翻訳も美しい。