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■2006.3.27
「アイロニー?」(文春文庫)。売れっ子モデルから芸者になった人、石丸元章の妻であるoka-changという人のエッセイ集。とは言っても、単行本が出るころには芸者をやめ、この文庫本が出るころには、離婚しているのだが。前から何となく気になっていたのだが、ちょっと立ち読みしたときに、文体が肌に合わないような気がしていた。文庫本になったのをきっかけに手に取ったのだが、読み進めるとすっかりおもしろがってる。(もちろん夫のことで)警察が家に乗り込んできたときのことなんか、爆笑してしまうし、「ダサい芸能人がダサい着物をダサい感じで着てるのだって、見てるとワクワクするじゃん?」なんていう感じも、よい。
帯に「山田詠美太鼓判!」とあったけれど、山田詠美が彼女を気に入るワケがわかる気がする。何というか、ひとりきりで立っていて、そして、愛にあふれているのだ。 |
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■2006.3.25
あの「悪童日記」の作者の自伝、「文盲」(白水社)。
意外なことに「悪童日記」の饒舌さはひっそりと影を潜めて、ほとんど不器用とも言えるような筆つきで半生が語られる。自伝にしては、とても短い長さで、本当に、事実だけを淡々と綴っている。
ハンガリーの村に生まれて、9才のとき、オーストリアとの国境近い町に引っ越す。それまでドイツ語は敵国語だったのに、新しい村では、ドイツ語を話す人も多い。そしてここでは、そのすぐ1年後には、ロシアによる占領。ロシア語を強制される。そして、1956年のハンガリー動乱。西側に亡命し、スイスでフランス語を話す生活が始まる。26才で娘が6才で学校に通い始めたとき、彼女もまた、フランス語の読み方を勉強するために大学の夏期講座に通い始め、子どもたちと一緒に綴りや活用の練習をしていく。そして、フランス語で「悪童日記」を書くに至るのだ。
幼い頃から本が好きだったが、読むことから書くことへと成長の舞台を移そうとしていたその時から、言葉を奪われ続けた一生。母国語を持たないという体験の苛酷さを、彼女は「文盲」というタイトルで表しているのだ。訳者はあとがきで、アゴタ・クリストフの言語の問題を、亡命前から著名な作家だったミラン・クンデラのようなケースとも、小さい頃から英語の家庭教師がいたナボコフのようなケースとも根本的に違うのだと指摘している。
70才を越えた彼女は、最近は書くことからは遠ざかって、本を読んでばかりいるらしい。「悪童日記」を超える作品はもう書けないとも言ってるとあって、ちょっと淋しい気持ちになる。でも、「悪童日記」から翻訳をし続けている訳者の心のこもった訳業とあとがきに、救われた気分になった。 |
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■2006.3.21
アーサー・ビナード「出世ミミズ」(集英社文庫)。
雑誌で文章を読んだり、詩の翻訳を読んだりしたことはあったけれど、著書を一冊ちゃんと読むのは初めて。文書の達者さ、着眼点のおもしろさは、さすがだけど、たんなる異文化エッセイとはちょっと違う。文庫本2ページに収まるショートショート的エッセイは、何だかちょっと川柳か粋な小咄みたい。しっかり味わいました。 |
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■2006.3.17
「黒雲の下で卵をあたためる」を楽しんだので、小池昌代をもう一冊。「ルーガ」(講談社)は、初めての小説集。
3篇の短編が収められているけれど、私がいちばん好きだったのは表題作の「ルーガ」かな。ルーガというのはミシンの愛称。主人公の蜜子は、父は借金苦で3才の時に家出、裁縫で生計を立てていた母も10才の時に事故か自殺かわからない死に方でなくすという、幸薄い生い立ちで、47才になって彼氏もいない淋しい独り身なのである。それが、ある時から、ミシンに取り憑かれたようになって縫いまくる、そして、その果てに……というお話。
書くことをタフに自分に課してきた女性らしく、女性のわびしさやみじめさを書くのに容赦はない。でも、サディスティックに走りすぎず、どこかクールですがすがしいのが、この人の魅力のように思えた。 |
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■2006.3.10
「高橋悠治コレクション1970年代」(平凡社ライブラリー)。高橋悠治の70年代の著作からダイジェストした文章が一冊にまとめられたもの。表紙にはピアノに向かう若々しい高橋の姿がある。
音楽のことも、音楽評論のことも、ちっとも詳しくないのでおっかなびっくり読み始めたのだが、「なんだろう?」「なぜだろう?」というシンプルな問いを、これほど実直に、ストレートに、そして丁寧に続ける人は他にはないのではないだろうかと思われるくらい、クリアな文章なのであった。第一章は「ことばをもって音をたちきれ」、第二章は「音楽のおしえ」、第三章は「たたかう音楽」を原典にしていて、理論から実践へと向かう変遷が、私のような初心者にも大まかにではあるが、たどれるようになっている。
いちばんの傑作は「小林秀雄『モオツァルト』読書ノート」という一文で、多分、発表当時にも物議をかもしたのだろうが、あの有名な小林秀雄の文章が、徹底的に批判されている。小林のロマンチシズムや甘ったるい受け狙いがけちょんけちょんにやられているが、批判文にありがちな、ねちねちとした感じがなくって、ばっさりと爽やかなのだ。
「ことば」に頼らずにものを作っている人は、「ことば」の加速度に乗っかってものを言う人にも、「ことば」そのものの甘い響きにも、さぞかしうんざりすることだろう。しかし、高橋悠治は、妬みを一切持つことなく、それが音楽であれ文章であれ、あるいはどんな芸術や人の営みであれ、権威や惰性からはきっぱりと身を離して屹立するものが存在しうることから目をそらさない。
それにしても、「小林秀雄につけてもらった道をいまだに走りつづけている」とか、「まわりくどい文章をもてあそんで何も言わないための「文学」にふけっている」とか、高橋に批判されてからもう30年経つというのに、音楽に関する批評が、ほんの少しの例外を除いて、そこからほとんど状況が変わっていないのが、なんとも哀れ。 |
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■2006.3.8
何だかものすごい楽しいらしいと、風のうわさにきく旭山動物園。「旭山動物園のつくり方」(柏艪舎)の本をもらった。飼育員や園長へのインタビューや取材をもとにしたドキュメントで、ふだんあまり読まないタイプの本なのだが、読み始めると、なかなかおもしろいのだ。
旭山動物園は一時廃園寸前までいくのだが、飼育員たちが奮起して、手作りのパネルを作ったり自ら工事に加わったり、人手も予算もないなか、知恵をしぼりながら理想の動物園目指して模索を続けていくのだが、よくある苦労話や成功話と違うのは、やっぱり、動物というもうひとりの主人公がいるから。園長は「幸せっていうのは、何かやりたいことがあって、それに対する努力ができて、結果が伴えば、それが幸せなんだ」と言う。つまり、野性の動物は餌を確保するためにほとんど一日中を費やしているわけであって、それに近い環境を作ってやることが動物園の動物の幸せに繋がると言うのだ。至れり尽くせりの環境がかえって不幸を生むという法則は、動物たちだけでなく、飼育員(彼らは公務員なのだ)や旭山動物園に関わる人々にも、ぴたりと当てはまってしまう。そこが、おもしろさ。
動物園は、必然的に矛盾を抱える場所である。けれど、地球全体、人間の存在全体が、そもそもそのようにしてあるのだ(自然保護を叫びながら、雑草を刈ったり肉を食べたりする、とか)。園長がインタビューで、「サルがヒトになったとき、完全に森を捨てた。その自然を捨てたということが、今の人間の心の弱みの原因だと思う」なんてさらっと言ってるのを読むと、何だか心が痛くなってしまう。 |
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■2006.3.2
小池昌代「黒雲の下で卵をあたためる」(岩波書店)。
ひとつの言葉や音やイメージを出発点にして、そこから想念を広げていく、その道筋を記した短文が集められている。たとえば最初は、鹿の瞳。あの、白目の極端に少ない、表情のあるような、ないような目。次は、道。道に迷うあの感じ。あるいは、通りがかりの修理店にパンクした車を1時間預けたという出来事を通して、見知らぬ人同士に交わされる約束の確かさと不確かさを思う。
著者の体験したことや、読んだ本や詩を通して語られることばかりなのだが、不思議なことに、文章からふつふつと湧いてくるイメージや感情を、私自身のなかにもたやすくみつけられるような気持ちで読み進めた。私も草食動物の目を見て不思議な思いにかられたことがあるし、道に迷う怖さや楽しさも知っているし、赤信号でいっせいに停まる自動車の群れを見ながら、世間をとりまく多くの約束事が当たり前のように守られていることにひどく驚いた体験もある。
こういう一致が意味するものは、私と著者が似ているということなんかじゃない(確かに、年齢もそう離れていない女性同士だから共通点は多いだろうが)。その証拠に、本の中には「あ、これは私と違う」という事柄ももちろん少なからずあって、それを見つけたときでさえ、私の中には親しみがあふれたから。そうなのだ、書いたり読んだり、ということは、共感をまさぐっているということなのだ。私が、水がしみこむみたいにすうっとこの本を読み通せたのは、共感するポイントの多さゆえではなく、まさぐっている、その感じがしっくりきたからだと思った。 |
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