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■2006.4.28
友達に推薦された一冊「ECDIARY」(レディメイド・インターナショナル)。ECDというラッパーが100日間つけた日記をそのまま本にしたもの。ECDなんて人、知らなかった。こういうふうに本を紹介してくれる友達は、ほんとうに貴重なのだ。ちなみに、その人は、この本と一緒に宮城道雄の本も紹介してくれたのだけれど、それは図書館にもなかったのでお預け。
ラッパーの本と言えば、弾丸のような文体かと思ったら、非常に落ち着いていて、簡潔で、こざっぱりとしている。というか、どちらかというと、口下手な印象。口下手なラッパーというのは、悪口になるのだろうか。多分、ならないと思う。悪筆の小説家、みたいなものだろう。
「メーワクを通じてしか本当の信頼は生まれない」とか「謝って済むなら警察はいらないというが、謝って済んで警察もいらないような世の中が住みやすいんじゃないか」とか、「うん、うん、そうだよね」ということが、あちこちに書かれている。でも、とりわけ興味深く読んだのは、CDやCDの流通について書いてある部分。やはりどうしても、本に置き換えて読んでしまう。例えば、「CDは知り合いに聴いてもらうためだけに作られる」なんてあると、確かに本も、いま、そういうふうになってきているかもしれないと思う。「いちばんつまらないのは、街頭で不特定多数に向けてそれが受け入れられるのが当然と信じてストリートミュージシャンが発信する類の音楽」というのも、出版にも言えるだろう。「コミュニケーションまでもが商品化されるのがスペクタクル社会なら、音楽が知り合い同士のコミュニケーションだけにとどまろうとするのは、それに対する抵抗ととらえてもいいのだと思う」なんて言うのを読むと、「いい本に限って売れない」なんてグチを言っている人たちに読んで聞かせてやりたくなる。
輸入盤規制とかコピーコントロールとか似た問題はたくさんあるけれど、音楽にあって本にないものがひとつある。それは、ライブなんだよね。もしかしたら、このことが本のことを考えるときの大きなヒントになるかもしれない。 |
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■2006.4.23
「顔をなくした女」(岩波現代文庫)は、ただ単にタイトルに惹かれて読んだ。著者の大平健という人は、聖路加病院の精神科部長とあり、本もたくさん出しているようで、タイトルに聞き覚えもあるから有名な人なのだろうけれど、私は初めて知った。
で、何気なく読み始めたこの本、とってもおもしろかった。何しろ、この人、語りがとってもうまい。何人かの患者さんの症例を話しながら、人間の精神構造の不思議さやおもしろさを解き明かしていく。だから、つまり、狭い診察室のなかで患者と交わされる会話が、この本で起きる「事件」のすべてなのである。けれど、文章で再現される患者の仕草や様子や言葉がきいきと伝わってきて、とってもおもしろい。物腰の柔らかな静かな文章なのだけれど、引き込まれずにいられない。人間の心の働きを明快に解き明かしてみせるが、それは、患者の病気や患者の心を見透かすような態度ではなく、人間というこの不可思議な生き物への畏れと愛が感じられるのだ。
精神科医は、言葉で治療する医師だ。もちろん、薬を処方することもあるが、言葉が、精神科医の聴診器だったりメスだったりレントゲンだったりする。言葉によって、患者を治癒へ導く――これは、本当に高度な技術じゃないだろうか。もしかしたら精神科医は(有能な、と限定すべきだろうが)、あらゆる文筆家や演説家にも及ばない言葉の使い手なのかもしれない。
いろいろおもしろい話はあったのだけれど、ひとつだけ、小さなエピソードを紹介。それは、ある分裂病(この本では、時代の匂いを残すため、あえてこの用語が使われている)の男性の話。この人は20才ごろ、ある日突然「自分は○○上人の生まれ変わりだ」と言い始めた。誰も相手にしないので、青年はその宗派の本山に上った。すると、高齢の管長が出てきて、青年の言い分を聞くなり「ははあ」と言って合掌して青年を拝んだという。一緒にいた家族は驚いたけれど、もっと驚くべきことに、この瞬間に、青年が正気に戻ってしまったというのだ。
すごい話ではないか。この管長のような振る舞いを「知恵」というのだと思う。このような知恵に出会うことは、めったにない。知恵を見失った人間が、ものごとを解決するための方法として発明したのが、法律や裁判なのかもしれないと思った。 |
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■2006.4.17
海野弘「秘密結社の世界史」(平凡社新書)。
フリーメーソンとか薔薇十字軍とか、グリフィスとかイエイツとか、何となく聞きかじっているけどいまひとつ正体がわからなかったものたちが、きちんと整理し説明されていて、勉強になりました。何たって話はギリシア古代のエレウシス密儀から始まって、最後は、タリバンやダ・ヴィンチ・コードまでが新書一冊に収まっているのだから、本当に概略だけなんだけれど、だから、1ページ1ページに知らないことがたくさん。私が無知なだけかもしれないけれど。
呪術的なものや秘術的なものに惹かれ、社会に対してアンチを唱え、そして、他者と結束しようとする。オカルティズムへのリアリティはなくても、人間の精神活動(欲望、と言ってもいいのかもしれない)の現象は、すごくリアルに感じる。表には現れない形で不気味にうごめいているものを感じるようになると、学校で習ったような表側の歴史も、また違ったものに見えてくる。 |
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■2006.4.15
カズオ・イシグロ「日の名残り」(ハヤカワepi文庫)。
周りで読んでいる人が意外と多い、カズオ・イシグロ。私は、しばらく前に映画を見ただけ。映画は、この原作にかなり忠実であることがわかった。
主人公がイギリスの伝統ある名家で執事として務めた男、というこの小説を読みながら、私はずっと以前に読んだ小泉八雲の短編を思い出していた。それは、明治期に生きた平凡な女性の一生を描いたもので、おぼろげな記憶しかないけれど、その女性は結婚してすぐに夫を亡くし、そのあと、周りの勧めで夫の弟と結婚するのだった。
近代以前の社会で生きる私は、取り替え可能な私である。取り替えがきかないのは、一部の権力や血筋を持った者だけ。取り替え可能な私は、立場に殉じる。執事という立場や、妻という立場だ。
「日の名残り」の主人公、ミスター・スティブンスにも、淡い恋の瞬間が訪れる。けれど、彼は恋に飛び込むことはできなかった。なぜなら、恋愛関係においては、私は、相手にとって「他の誰でもないあなた」になるわけで、取り替えのきかない存在になるから。真の意味で「取り替えのきかない私」に殉じようと思う者は、「この唯一絶対の私」を捨てなくてはならない。
だから、立場に殉じることを放棄すると、社会からは「不倫」だと非難され、配偶者からは「人でなし」と非難されるんだね。
私たちは、自分は世界にたったひとりの存在なのだと、教えられてきたし、事実そのように見えるけれど、本当にそうなのかな? そして、取り替えのきかない私は、取り替えのきく私よりも、幸福なのだろうか? そんなことを言うと、ニートの本の時に書いたことと矛盾するかな。
よくできた小説で、それなりに楽しんだけれど、衝撃力の強さというか、重みという点では、八雲の短編にかなわないような印象を持った。私はブッカー賞と相性が悪い。 |
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■2006.4.10
「「ニート」って言うな!」(本田由紀+内藤朝雄+後藤和智 光文社新書)。
この3人の著者の取り合わせはちょっとおもしろくて、教育社会学者と社会学者と学生。本田のブログへの書き込みによってやりとりが生まれ、それが、この本の誕生へと結びついたのだ。最近は、ブログとかをそのまま本にしてしまうケースが多いけれど、これは、ブログを有効に利用しつつ、その成果を「本」という別個のメディアに成長させた(こう書くと、本はブログより大人って感じだが、そう思ってるわけでもない)という意味で、よい例になっていくと思う。
内容も密度が濃かった。「ニート」という言葉が、「ひきこもり」「パラサイト・シングル」「青少年凶悪犯罪」といった現象やキャッチフレーズと一緒くたにされて、「わけのわからない近頃の若いモン」という社会的憎悪の対象として利用されていった過程がきちんと検証されている。
「社会の役に立つ」というひとつのものさしだけで計られるのならば、社会は生きがたいものになる。社会の成熟とは、受け入れる多様性の幅を広くするというこの本のベースになっている考え方に賛成。 |
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■2006.4.7
古川日出男「二〇〇二年のスローボート」(文春文庫)。サブタイトルは、「中国行きのスロウ・ボートRMX」である。単行本で出たとき、何度も手にとって迷った挙げ句結局読まなかった理由を正直に言おう、つまり「小説のリミックス」という概念にいかがわしさを覚えたから。で、読み終わって、そんな自分を反省しました。
「中国行きのスロウ・ボート」は、忘れることのできない衝撃的な本であった。本の最初に「これは僕にとっての最初の短篇集である」という一行を、高校生だったか大学生だったかの私は、この作家の決意表明として読んだ。表題作にあった、中国人教師の「誇りを持ちなさい」という言葉も、中国人ガールフレンドの「そもそもここは私の居るべき場所じゃないのよ」という言葉も、はっきりと記憶に残った。甘い陶酔の響きはなくって、きしむような、痛いような音の響きだった。そして、決定的な、あのイメージ――逆まわりの山手線。
「「中国行きのスロウ・ボート」という短編には、僕という作家の魂のルーツがある」と語る古川日出男。最初に読んでから20年後に初めて、この重さを共有してくれる他人と出会った気分だ。私なんかと一緒にして悪いとは思うけれど。
「リミックス」という作業については、古川氏があとがきで、あるリミキサーのエピソードを紹介していて、それが、いちばんよい説明だと思える。つまり、その人は、アーティストからリミックスを依頼されたとき、あれこれ考えることはせず枕元でリピートモードのまま流しっぱなしで一晩寝る。すると、朝目覚めたときに。「どのようにリミックスするか」が決定している、というエピソードだ。うん、リミックス、である。 |
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■2006.4.5
「種村季弘 ぼくたちの伯父さん」(河出書房新社)。ポートレイトや、生前、氏の周辺にいた人によるエッセイや対談、ビブリオグラフィなどから成っているムック本。
翻訳にしろ、評論にしろ、誰にも似ていない、誰にも真似できない仕事をした人。無類の博識であるのには間違いないのだけれど、カタログ的というか、データベース的な脳味噌の匂いがしないのが不思議。これほど頭脳明晰な人が、マニエリスムとか魔術的なものにこれほど惹かれている理由も、何となくしっくりこない。これが私のタネムラ像だった。読み始めて途中で挫折した本も多く、つまり、さっぱり太刀打ちできなかったわけだ。
ふむふむ、なるほど、という感じで読んだが、全体的な印象を一言で言えば、「みんなタネムラさんに甘えているなあ」となろうか。いえ、皆さんそうそうたる顔ぶれの書き手たちなのだが、もう、タネムラさんにはかなわない、かと言って、大仰に褒めまくるのもふさわしくないんじゃないか、という感じで、「ね、オヤジ、そうだよね。でもまあ、難しい話はこれくらいにして、飲みに行こうよ」なんて言っているふうに読めてしまう。そういう甘えを感じなかったのは、唯一、谷川渥の文章だけだった。
有名なエピソードらしいが、種村氏が赤瀬川原平の評論をしたときに、梱包作品から紙幣の印刷へと概念が広がったとしたので、時間的な事実が逆なことを赤瀬川氏が伝えると、自分の論のほうが事実だと赤瀬川本人に向かって言い放ったということがあったという。つまり、リアリティというものは論理的必然性のほうにこそあり、事実が先走ったり間違うことはあるものだ、という考え方なのだ。このエピソードを紹介する赤瀬川氏の文章で、種村氏には、人や事物の「石目」が見えるのではないか、と言っているそうだ。この「石目を読む」という言葉は、種村季弘にとてもぴたりとくる表現のように思えた。私は、稀代の詐欺師とかスパイとかが出てくる映画を見ると、彼らの頭のよさに、いつもものすごく感心してしまうのだが、その時感じる「頭のよさ」というのは、まさに石目を読む能力なのだ。
たくさんの写真に写っている種村氏の、立派なおでこをじっと眺めながら、一体この中にはどんな脳味噌がつまっていたのだろうかと想像した。 |
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■2006.4.1
高山なおみ「諸国空想料理店」(ちくま文庫)。
この人のレシピブックはいろいろと見たことがある。私は本を見ながら料理することはあまりなくって、レシピを見ながらプロセスや出来上がりをイメージするばっかりである。でも、料理の本を見るのは、とても好き。高山なおみという人については、何となく味の好みが私と似ているような気がしてた。
文章の本を読んだのは初めて。お、なかなかツヤのある文章を書く人だね。テレビで料理しているのを見て、もうちょっととぼけた人かと思っていたら、意外と色気も毒気もありで、おもしろい。
でも、料理の本を見るのは好きなくせに、私は料理研究家という人たちを、完全には信用していないような気がする。食欲や味のことを延々と追究していながら、欲望をつきつめていったらきっとたどり着くはずである(と私が信じてる)カタルシスというか、痛みみたいなものを出さないから。そんなもの、この世にないっていう顔をしているから。いま、人気の料理家はたくさんいるけれど、おいしいものの果てには、幸せの果てには、何があるのかを教えてくれる人はいない。でも、この高山なおみという人ならば、30年後ぐらいにこっそり教えてくれるかもしれないと、ふと思った。 |
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