■2006.5.27

森茉莉「私の美男子論」(筑摩書房)。1960年代に雑誌「ミセス」に連載されていたものをまとめた本。大倉舜二のポートレイト写真と森茉莉のエッセイで、毎回ひとりずつ取り上げていく。三島由紀夫も宇野重吉も、小澤征爾も、みんな若い、若い。撮った大倉舜二も若い。森茉莉は、年齢を超越しているから、若いとも老けてるとも思わない。何しろ、本の最初の文章が「三島由紀夫は前に一度お目にかかって、吃驚したという人物である。どうして吃驚したかというと、親切な人物だったのである」なんて具合なのだから。
写真でも文章でも、登場する人たちが、みな澄んだ目をしている。そのせいで、本のなかを流れる空気が、とってもいい。それにしても、森茉莉の文章! 形容詞ひとつとっても、名詞ひとつとっても、揺らぎがない。それでいて、全体は、ふわふわと漂うような、柔らかな手触りがある。
最後に3本の対談が収められていて、相手は、渡辺淳一と大熊信行と萩原葉子。どれも、めちゃくちゃ楽しい。
■2006.5.25

こんなひどい町には住めない、もっと静かでゆったりした所に住みたいなあとしょっちゅう思うけれど、でも、ほんとはかなり東京が好きだ。どちらかと言えば行動半径もせまく、閉じこもりがちな生活だけれど、たまに自転車でうろうろ走り回ったり、仕事の関係で見知らぬ駅に降り立ったりすると、結構わくわくする。皇居の周りをカーブしながら車を走らせたり、首都高からビルを見渡したりするときも、ちょっとうっとりする。空に突き上げられたクレーンとか、何の変哲もない住宅街とか、そういうのも、いい。時々むしょうに歌舞伎町や渋谷の雑踏のなかに身を置きたくなったりするなんて話をすると、たいていの人は「えーっ」と眉をひそめるが。
この感じはどうしてかな、と長い間思っていた。幼い頃から住んでいる町だからかな。でも東京は、ひっくるめて「自分の町」と言い切るには、ちょっと広すぎるし、多様すぎる。
この本は、そんな私の長年の疑問に、うまく答えてくれた。中沢新一の「アースダイバー」(講談社)。縄文期の東京の地形を今の地図に重ね合わせてみる試みである。東京は複雑なフィヨルド状になっていて、今も川が流れているところや、低くなっているところは、みな海が入り込んでいたのだ。複雑に入り組んだ海岸線の突端にあたるところに、神社やお寺が並んでいる。
この本には、たくさんの写真や特大の地図までついているので、それを見ながら知っている町の地形を思いうかべてみると、あら不思議、フラットだった私の頭の中の地図が3D化するではないか。例えば、すり鉢の底みたいな渋谷の大交差点から青山に向かって歩くときの、あの、水底から上がっていくような感覚が頭の中の立体地図とぴったりと一致する。
これは、東京という土地の無意識をさぐる本だ。東京を見る目、東京を歩く目が変わる。ときどき間をはしょったような言い回しがあって「どうしてそういうふうに言い切れるのか教えてよ」とつっこみたくなる部分もあったけれど、構成、図版の入れ方、全体のデザインなど、細かいところまで工夫と気遣いの凝らされた気持ちのよい楽しい本であった。
■2006.5.20

「少年裁判官ノオト」井垣康弘(日本評論社)。
著者は、酒鬼薔薇聖斗事件を担当した裁判官で、少年の裁判を長く担当した人。退官後の今は少年事件専門の弁護士で、関係者のなかではとても有名な人らしい。
本の最初には、その酒鬼薔薇事件の経緯がいろいろと書かれているのだが、誰かと糾弾したり正義を振りかざすこともなく、後半で取り上げられる他の事件と同じような落ち着いた口調で語られていて、そこになぜだかほっと安心するような気がした。
人間の心には魔物が棲むというような言い方もある。けれど、先月「顔のない女」を読んだときにも感じたように、心というのは体と一緒で意外とメカニカルだ。現象として現れる行為は理解しがたかくても、その特別な文法さえ理解すれば、そこへ至るまでの論理の道筋は非常に明快で破綻もない。
著者は、鬼薔薇事件をきっかけに犯罪を犯した人に対して罰を与えるという「応報的司法」のあり方に疑問を持ち、「修復的司法」へと転じていこうと働き続けている。「修復的司法」というのは、裁判の過程で、被害者や加害者や社会が関係の修復や関係をはかれるようなシステムだ。そこに関わる人には高い専門性が要求されるし、第一、手間がかかる。でも、問題の原因はどこにあるのかをていねいに追究し、被害者もその場に立ち会って納得を探っていくプロセスを踏む方が、断然合理的だとしか思えないのだが。どうみてもガチガチの保守的組織にしか思えない裁判所の中で、従来の仕組みを変えていこうとする動きが、どんな軋轢や反発を受けるか想像はたやすい。でもそれに立ち向かっていく著者の行動力や人間性が、そのままこの本の魅力になっているのだ。
法律とは何なのか、法律がなぜ必要なのか、あまりにも知らなさすぎると痛感した。法律はたんに、ルール違反をしたときのペナルティを決めたものではなくて、社会や人間にたいするアイディアの、ひとつの表現なのだと思った。
■2006.5.16

菊地成孔「CDは株券ではない」(ぴあ)。菊地成孔のJポップ批評。もともとはタワーレコードのサイトでの連載だったのが本にまとめられたもの。
2003年9月から2005年5月まで、編集部によって選ばれた3曲にたいし、音楽そのものとプレスキットだけで、発売1か月で何枚売れるか売り上げ予想を立てるという方法で「CDは株券ではない」ことを証明してみせる――という本。なのだが、この予想が全然当たらないんだよね。世間ではやっている音楽を普通に聞き流している私でさえ、数週間経つころにはわりと近い数字を出せるようになるのだが、菊地氏の場合は決してそうはならなくて、結果、「CDは株券ではない」という結論が正しく導かれるのだ。もっとも、この結論を別にすれば、もうひとつの結論は、本のいちばん最初にある、近田春男との対談で出てしまっている。しかも対談の冒頭での近田春男の「構造的な意味での革新性に乏しいということと、あと、みんな日本語ということをどう考えているのか。この2つの点において、作り手たちの底があまりにも浅い気がする」ということばと、それに続いておこなわれる「とにかく、日本人ってほんとの意味で言ったら、音楽そんな好きじゃないと思う、一般的に」という発言でちゃんと総括されてしまっている。そんな大胆不敵なこの本が最後の1ページにいたるまですごく面白いのは、やっぱり、「CDは株券ではないことを証明する」という思いつきのまま突っ走った菊地成孔の文才(いや、話芸というべきだな)の力なのでしょう。まったく、ほんとに頭のよい人だなと、何度も感心。
こういう本を読むと、すぐ出版とか本に置き換えて考えてしまう悪趣味な私にとっては、文中たびたび繰り返されるナンシー関の名言「日本からヤンキーとファンシーが消えることはない」が胸にしみるし、この本の最後がCD工場見学で締めくくられ、「もの」としてのCDへの素直な感動が記されていることは、ひときわシンボリックなことのように思えた。
音楽まわりの文章を読んでいると、「楽曲」とか「音源」という言葉がよく使われているのに気づくのだが、これって新鮮。「音楽」とか「曲」とかいう言葉には何か特別の価値があるような観念が含まれるているけれど、それらとは違うプレーンなブツとしての音楽が、用語として切り離されたときに見えてくる。文学とか小説とか本のジャンルにも「楽曲」や「音源」にあたる言葉が生まれれば、状況はいろいろ変わってくるように思える。おそらく私の好みとは逆の方向への変化だろうが、それでも今よりはよっぽどいい。
■2006.5.12

「先生はほほ〜っと宙に舞った 宮沢賢治の教え子たち」(自然食通信社)。
宮沢賢治の教え子たちを訪ねてインタビューした記録映画の制作と並行してつくられた本。教え子たちのポートレイトとともに、インタビューがまとめられている。インタビュアーであり、この本の著者である鳥山敏子さんは、「賢治の学校」というシュタイナー教育をベースにした新しいスタイルの学校をやっている人として知っていたが、この本が出た1992年はまだ公立小学校の先生をしている。
この本に登場する15人の、花巻農学校での教え子たちは、みな明治末期の生まれで、出版当時、80才代。教師になった人もいれば、賢治先生の教え通り百姓になった人もいるし、ほかの仕事についた人もいる。モロに影響を受けて賢治の教えをずっと胸に抱いてきた人もいれば、よくわからない劇をやらされて楽しくなかった、なんて語る人もいる。今に至るまで多くの人の熱い支持を受けるなかで、宮沢賢治像が固定化してしまいがちなのにたいして、この本で語られる賢治は、それぞれに、少しずつ違っていて何だか安心する。
でもやっぱり多く語られるのは、種山ヶ原やイギリス海岸を散歩したときのこと。先生は「さあ行こう」なんて言わなくて、「どこどこさ行く」っていうから、生徒たちがくっついて行った――なんて話もある。こういう思い出話は、やっぱり細部がおもしろい。
先生の語った言葉や教えそのものが残ることもあるけれど、生徒の心のなかに長く残るのは、やはり、教師の精神のたたずまいなのだと思う。先生のちょっとした仕草や後ろ姿に感じた印象が、存在のエッセンスとして、生徒の心の奥深くに宿る。それは、教師と生徒だからということよりも、人と人とのふれ合いというもの自体が、そうなのだと思う。
■2006.5.5

古本屋で、装丁に一目惚れ。田村義也である。森崎和江「ミシンの引き出し」(大和書房)。
新聞に連載された短いエッセイを集めたもので、タイトルからもわかる通り、本当に身近な話題を集めたもので、登場するのは、名もなき人々ばかり。近所の人の言葉や旅先で目にした人のうしろ姿。森崎和江は、そういったものを心の真ん中で受け止める。過去の自分の失敗や、自分自身の在りようの不完全さも、同じく真ん中で受け止める。家事や育児をしながらものを書き続けてきた彼女の視線は、とても低い。地面から数センチぐらいに感じられる。平凡に徹して生きる。でも、そこには溺れない。日常の雑事のなかに、人間の深淵を見る。雑事もやりきれないが、深淵もやりきれないことをも見る。
食べものや着るものなど自分の好みばかりを連ねた女性エッセイがたくさん読まれて、こういう本が多く読まれないのはなぜか、と、思い上がったグチをこぼした途端、この本にたしなめられた。
心の奥底で、ドクダミの花が一輪ぽっと咲くような本であった。