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■2006.6.25
去年、デプレシャン映画に初めて出会って興奮していたら、友人が、出たばっかりのこの本をくれた。「すべては映画のために! アルノー・デプレシャン発言集」(港の人)。心のなかで思っているだけじゃなく口に出して言うことは大切なことだと痛感した。だから言っておくと、デプレシャンのDVDをすべて見終わったあと、私はすぐにウェス・アンダーソンに出会い、それ以来私の中ではウェス・アンダーソン・ブームが続いている。
「キングス&クイーン」という新作映画の公開に合わせて作られた本で、中には、映画の内容に触れた部分も多かったので、そこは全部とばして読んだ。映画を見てから読むために。
そのほかには、インタビューや映画美学校での講義など。「プリティ・ウーマン」がいかにすばらしい映画なのか、についても語られる。そうか、「プリティ・ウーマン」か。テレビでちらっと見たきりなので、今度見直してみなくては。何を考えながらそのシーンを撮っているか、という映画監督の話は、いつもとてもおもしろい。 |
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■2006.6.18
「目白雑録2」で、「そんなことがあったのか」と初めて知った事がらでもっとも驚いたのが、中原昌也と島田雅彦の一件。で、中原の「KKKベストセラー」(朝日新聞社)を読んだ。
死んだとか終わったとか言われ続けてきた小説の息の根をとめてくれる人が、ここに現れたという感じ。中原昌也の天才ぶりが圧倒的で、周囲の人が茫然とした気持ちもわからないではない。
中原の小説は、なるほど納得であったが、むしろ気にかかってしまったのは島田雅彦。なぜ皇室大好きになってしまったり、こんなにつまらない嫌みを言うようになってしまったのか、不思議だった。 |
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■2006.6.15
金井美恵子「目白雑録2」(朝日新聞社)。
最初に渋谷の大きな書店で見つけたときは、これを買ってしまったら何もかもそっちのけで読みふけることはまちがいないので、今抱えている仕事が一段落したら、と自制。その仕事が片づいて町の小さな本屋さんを何軒か回ったけれど、この本は置いていないし、お店の人に尋ねても金井美恵子なんて名前も知らない。「その1」のほうは私の周りでかなり話題になってたから、その続編とくれば、日本中の人が待ち望んで当然と思ったけれど、そんなのまったくの見当違いなんだということを思い知った。
「その1」から数えてちょうど2年後の刊行で、2004年からの連載をまとめたものなのだが、「そういえばそういうこともあったな」というのと「ふーん、世間ではそういうことが起きていたのか」と思うことが半々くらい。ふだんは雑誌や新聞を一切読まず、2年間に1度、金井美恵子の本で世間を知るというのが慣例化されたら、この先、私の人生はかなりハッピーだ。 |
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■2006.6.5
「ファンタジア」(みすず書房)。ブルーノ・ムナーリの1977年に出た本の翻訳。
ムナーリのいうファンタジアは、想像力であり創造力である。ファンタジアとは何か、ファンタジアはどこからやってくるのか、人間はファンタジアをどうやって形にしてきたか、子ども達が持つファンタジアをいかに守り育てるか。でもこの、ムナーリのファンタジア論でいちばん大切なメッセージは、人間にとってファンタジアがいかに大切かということだろう。「ファンタジアの豊かさは、その人が築いた関係の豊かさに比例する」とある。「多さ」ではなく「豊かさ」というのがポイントですよね、ムナーリ先生。
後半は、子ども達へのワークショップの実際がたくさん説明されているので、アートやデザインを教える立場にある人にも役立つだろう。でも、何より、集められたたくさんのイラストや写真、伝統的な美術作品から新聞の諷刺画、葉っぱのフォルムをとらえた写真、映画の一場面、子どもの描いた絵など、たくさんの図版を見ているだけで楽しいのだ。柳宗理がムナーリのために折った折り紙なんかもあったりして。昔の洋書そのままのモノクロ具合が、なかなかいい。 |
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■2006.6.1
「魚は泳ぐ 愛は悪」(言叢社同人)。書店で何となく惹かれて手に取った。島尾伸三の最新作だが、文章は書いていなくて、ひとり語りをまとめたもの。テーマは、子ども。自分が子どもの頃のことや、自分と子どものことなどを、たくさんしゃべっている。子ども時代のことについては「月の家族」という本で書いていたのを以前に読んだけれど、こちらのほうは、何というか、もっと赤裸々。「月の家族」のほうは、やはりひとつの作品であり、自伝というより、小説を読んでいるような気にさせられたものだ。
自分の狂気のなかに子どもを巻きこんでいく親。子どもが嬉しそうにはしゃいでると頭を押さえつける学校。幸せぶりっこしている社会。そういうものにたいする憎しみを、隠さない。とくに、親にたいして、島尾伸三がこのように直接的に憎しみを語っているのを、私は初めて読んだ。「妹と私が味わった苦しみを奴らに味わわしてやりたいと思っちゃう」とか。
子どもを自分の精神のバランスが壊れたときの杖やサンドバックにし、なおかつ、それに「愛情」という衣を着せる。愛情と憎しみのなかでもみくちゃにされた子どもが、どういうふうに壊れていくかを細かく説明する。家の中にいて暴力ふるったり引きこもっている人は、まだ親の愛を信じてるんだ、と言う。「愛を表明できないくらいに困窮していたり、壊れた人に、健康な愛が被害を与えているのではないかということには、まるで思い至らない」とか、「不幸ってなかなかリアルで凄いですよ」とかいう一節もある。人間は、小さい頃から周囲の人間から「しぐさ」としていろいろなものを受け取って、それを「物語」として集約することで自分を律している、なんてことも言ってる。愛も憎しみも、人を殺しも生かしもする。
全編怨み節というわけでは決してない。今まで島尾伸三の書いたものを読んだりするとき、何か言葉にならない吸引力を感じていた。文章や写真が他のどんな作家のよりも好きというふうには感じないのに、何か見過ごせない、心にひっかかるものを感じていた。この本を読んで、「ああ、これだったのか」と深く納得した。この憎しみ。怒り。破壊衝動。島尾伸三は「いかに殺しきるかにしか人生の目標はない」と言う。
言葉尻だけをとらえれば、不穏当なところがいっぱいある、かなり過激な本だ。巻頭には編集部からの長めの文が掲げられている。ひとつの憎しみも持たずに生まれてくる子どもが親や社会から憎しみを注入され続ける社会、もし子どもが受けてきた憎悪を吐き出そうとすれば抹殺する社会、愛や美や快楽だけをとりあげ暗い衝動を消し去ろうとする社会、そういう今の社会への問題定義として出版するのだという、8割決意表明、2割言い訳(私には、そう読めた)の文章である。でも私の知る限り、版元の悲壮な決意とは裏腹に、この本のことはほとんど話題になっていない。つまり、そういうことなのだ。 |
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