■2006.7.30

「アンティ・ヌルメスニエミについての小さな本」(サンク&ビオトープ)。
北欧のインテリアや雑貨などを扱う、サンクとビオトープというふたつのお店が共同でつくった小さな本。アンティ・ヌルメスニエミというのは2003年に亡くなった北欧のデザイナー。彼のデザインしたほうろうのポットはとってもかわいくて手に入れたいと思ったこともあったけれど、なかなか大変みたいだ。たまにお店に入ってもすぐに売り切れ。ときどきヤフオクで見かけるけど。
この本は、そのコーヒーポットへの思いが高じて、フィンランドを訪れてデザイナーとして現役で活躍する奥さんへインタビューし、彼と彼の作品(ポットや椅子ばかりでなく、遺作である、なんともおしゃれなブルーの鉄塔も)を日本へ紹介するものとして作られた。
文庫本サイズだがハードカバーで、本屋さんには、コーヒーポットと同じような色合いで何色か表紙のバリエーションがあった。私は、いちばん上にあったブルーを選んだ。写真もたくさんの、かわいらしくシックな本だ。
■2006.7.23

昭和48年のカッパ・ブックス「旅の詩集」は、寺山修司が編んだ旅の詩を集めたアンソロジーだ。表紙には竹久夢二の絵、本文中には林静一のイラスト、ジャケットには塚本邦雄の推薦文というおなじみの面々が、カッパ・ブックスの存在感とちぐはぐで奇妙な味を出している。
放浪、別離、異邦、望郷など、10のテーマにわけられて、それぞれの冒頭には寺山のエッセイ。旅とかアンソロジーとか、寺山修司の十八番だとはいえ、エッセイの味わいも、選ばれた詩のひとつひとつも、やっぱり酔わずにはいられない味の良さなのだ。「ミラボー橋」とか「おうい雲よ」とか「ふらんすへ行きたしと思へども」とか、口ずさみたくなるような詩もいっぱい。
■2006.7.17

青山真治の映画と青山真治の小説は、私の心のほとんど同じ場所を触ってくる。ふだんは怠惰な眠りのなかに沈んでいる、ある特別な場所を刺激するのだ。刺激されたとたん、その細胞は紙よりも薄い刃物みたいに痛いほどぴんと立って、ほんのかすかな光や言葉に敏感に反応して細かくふるえる。
決して、完璧な小説ではないのだ。ところどころに、「あ、これは」と思ってしまうような小さなほころびもある。でも、小説が総体として何を伝えてくるかと言えば、生の切実さと死の切実さそのものであって、その切実さを切実に感じる以外に、映画を観たり小説を読んだりする意味があるのだろうか、と思えてしまう。
青山真治「ホテル・クロニクルズ」(講談社)。
■2006.7.14

田中哲弥「ミッションスクール」(ハヤカワ文庫)。
ずーっと昔に、この人の「大久保町の決闘」を読んだきり、生涯で2度目の田中哲弥なのである。ただし、ホームページの存在を知ってからは、風変わりな日記をときどき読んで楽しんでいた。
で、「ミッションスクール」。なんでも7年ぶりの新刊らしい。読んで、とっても驚いた。小さなものを巨大に書き、大きなものを小さく書く、その狂った遠近法。ストーリーが脱臼したまま文章だけが走り抜けていくさまは、分類するならば純文学としか思えないのだけれど、純文学を意識して書いている様子はまったくなくて、逆に、純文学にはなるまいという対抗心さえも感じられない。ここにもひとり天才発見、の気分。初期の高橋源一郎をちょっと思い出したけれど、あそこまでの計算づくのうまさがないので、高橋源一郎のようには決してならないだろう。いい意味で。
いわゆる、ライトノベル業界みたいなところでは、この人はどのように評価されているのだろう? というのが、気になるところ。
■2006.7.10

アメリカの詩人、チャールズ・シミックがジョゼフ・コーネルへのオマージュとして書いた本、それが「コーネルの箱」(文藝春秋)。作品論でもありオマージュでもあるたくさんの短い散文詩が、寄せ集められた断片のようにして、本というひとつの箱に収められている。チャールズ・シミックは、以前、同じく柴田元幸によって訳された「世界は終わらない」を読んだが、アメリカと音楽を理解しない私には、壁が高すぎると思った。
本の最初で、シミックはコーネルの生い立ちと人生を簡単に紹介している。20代の後半でデビューするまで織物会社に勤めていて、20代から家族と住んでいた小さな家に終生住み、その家の地下室ですべての作品をつくったとある。アメリカのアートが全盛期だった頃にその潮流の中心にいたひとり、という華やかなイメージを持っていたが、絵や彫刻を学んだこともなく、アウトサイダー・アートの作家に近いイメージだ(訳者のあとがきを読むと、ガラクタ集めが好きなばかりでなく、内気で病弱で、ジャンクなおやつが大好きだったエピソードも付け加えられる)。
ひとことで言うと、シミックのコーネルは、私の感じるコーネルと少し違うと思った。原題は「ダイムストア・アルケミー」であるそうだが、コーネルが錬金術によって箱の中に何かを作り出したというイメージも、うまくのみこめない。日本語の「コーネルの箱」にしても、「の」という所有格がひっかかる。私にとって「箱」は、限定された空間であると同時に、いくつもの矛盾が並存する宇宙的な空間に感じられるからだ。こういう感じ方は、美術批評的には一笑に付されるべきロマンティックな妄想なのであろうが。
■2006.7.2

ショーン・ペンの映画を何か見ようと思って「プレッジ」という映画を借りたらサム・シェパードが出てきた。この俳優には、いつも意外なところで出会う。
演劇にも戯曲にもうといので、映像以外ではこの一冊が、私にとってのサム・シェパードのほとんどすべてだ。「モーテル・クロニクルズ」(筑摩書房)は、奥付を見れば1986年に出た本。出版当時、本屋さんで平積みになっているのを手に取り、中味と装丁がぴたりと重なりあっているのを強く感じ、その乾いた雰囲気に「うーん、おとなの世界だなあ」と感じ入ったのをはっきり覚えている。当時は、菊池信義なんて名前はきっと知らなかったはずだが。
20年ぶりに読み返しても、不思議なほど印象は変わらない。詩や短い散文が集められている。心がどんなに孤独や絶望感で満たされていても、アメリカ大陸の土ぼこりを含んだ風が、涙を瞬時に乾かしてしまう、そんな感じ。どこからかライ・クーダーのギターが聞こえてきて、映画「パリ・テキサス」で見た車の窓からの砂漠の景色が脳裏に浮かぶけれど、これはたんにアメリカに関する私のイメージが貧困だからだろう。
ある女友達がいて、彼女とは2、3度一緒に古本屋をぶらついたことがあるのだが、いつも棚のどこからかサム・シェパードの本を見つけだしてきては買っている。でも、そのことを口に出して指摘するのは、何だかためらわれて、私はいつも横目で見ながら気づかないふりをする。そして、彼女の心の一部を占めているサム・シェパード・ワールドの風景を想像する。