■2006.8.28

イアン・マキューアン「アムステルダム」(新潮文庫)。
小さな旅行の行き帰りの電車で読んだ。ちょっとサスペンス風味で、長さもあまりない小説は、ぴったりの選択だった。
イアン・マキューアンは、いかにもイギリスの作家らしい作家だった。皮肉と優美さと伝統と斬新さをバランスよく備えていて。主人公に新聞社の編集部長と作曲家というふたりのエリート男性が出てくるのだが、その描き方もエレガントで、かつ、シニカル。けれどちょっと、優等生的なまじめさがあるように感じられて、そこが、物足りない。訳者のあとがきによると、ほかの作品は、これとはだいぶ雰囲気が違うようなので、他のも読んでみよう。
■2006.8.22

続編が出ると聞いた日から楽しみにしていた「文学賞メッタ斬り!リターンズ」(パルコ出版)。今回もおもしろかったんだけど、前回のように爆笑しながら読むというより、ちょっと考え込んだりしてしまった。
ついこの間、古本屋さんで何気なく金井美恵子の昔のエッセイ集を買ってパラパラと読んでいたのだが、加藤典洋の「文芸評論というのは、つくづく厄介な商売だと思う。いろいろな小説を読んでいるうち、自分がほんとうはどういう小説が好きなのか、わからなくなってくる」という言葉を引用しつつ、そんなにもたくさんの小説を読んでいるのならば、誰もめったに「小説」など書かないし、誰もめったに「小説」について「文芸評論」など書いてはいないということに気づくべきだし、「自分の好み」自体を疑うことを前提として書きはじめるのが「批評」なのだ、とあって、深く肯いたのであった。
「小説」と銘打たれて出版された、文学賞なるものを受賞した、あるいは、たくさん売れたという事実が「それがよい小説である」ことの証明にはまったくならないことはおろか「それが小説である」ことの根拠にすらならない(「小説」を金井美恵子の指す範囲よりかなりゆるく広げたとしても)という状況の中で、大森望と豊崎由美、このふたりのドン・キホーテ的な振る舞いを誰が正しく評価できるのであろうか。
■2006.8.20

「山田風太郎育児日記」(朝日新聞社)。
「戦中派不戦日記」とか日記をたくさん出している山田風太郎の、いまだ知られざる一冊があった、ということで、出版の運びとなったらしい。自分の日記帳から子どもに関するところだけを別のノートに抜き書きして、娘の結婚のときに渡したのだという。そういう心憎いことをできる父親は、あんまりいないだろう。
でも中味のほうは、言ってしまえば、ごく普通の育児日記なのだ。熱を出したとか、いたずらして叱られたとか、覚えたての言葉でませたことを言ったとか。普通だけど、退屈ではない。ところどころに見いだせる作家ならではの着眼点の光る箇所を拾い上げて分析しながら読む人もいるのだろうが、私はただ、にやにや、だらだらと読むのがいい。
最後の記録は、娘が中学1年生のある日。

  中学1年生の佳織、余の血尿の話をきいていて、
  「生理じゃない?」
  という。本人はまだないが、話はきいているらしい。
  余と五目ならべをやっていて、
   一方がとめられている三丁の石を四つにつなぐ。
   「無意味だけれどね」という。
  知樹は夜、自分の部屋へ廊下を歩きながら
   「ヌキ足サシ足シノビ足」という。

と、こんなふうにあって、ここで唐突に終わってるのが、何だかとってもいいのである。
■2006.8.14

「作家の猫」(平凡社コロナブックス)。
漱石から始まって、熊谷守一、藤田嗣治、百けん、大佛次郎など、おなじみの面々が目次に並んでいるので、あまり期待せずに買ったのだが、じっくり読んでみれば、猫を抱いている三島由紀夫や火鉢に手をかざす犀星の猫がいたり、南方熊楠が「猫はあんまりおいしくない」と言ったという話やら、どのページにも小さな楽しみがたくさん盛り込んであって、あちこちめくってはじっくり読み耽った。登場する幾多の猫たちの風情と、骨抜きにされている作家たちの様子に、当てられっぱなし。
■2006.8.10

人に薦められて「DEATH NOTE」の第1巻を読んで「おおっ!」と思って夢中で読み進んだけれど、デスノートが2冊になったあたりから混乱してきて、半ばに至る前に挫折した。「はちクロ」第1巻を読むのにも2日かかって周りにあきれられたし、視線をあちらこちらに飛ばしながら絵と文字が複雑に入り組んだ漫画というものを読むのは、私にとっては、かなりハードルの高い作業なのだ。
その「DEATH NOTE」のノベライズが出たと聞いて、仇討ちとばかりに早速買って読んだ。上から下に読むだけだったら誰にも負けないぜ、って感じ。ただしこの西尾維新の「DEATH NOTE アナザーノート ロサンゼルスBB連続殺人事件」(集英社)という長いタイトルの小説は、あの漫画をノベライズしたものではなくて、サイドストーリーなので、本編の続きを知ることができるわけではないのだ。しかしそれでも充分におもしろかった。出だしが出色。しなやかな良質の筋肉をまとったアスリートの体みたいな文体。こういう種類の快感は久し振りに味わう。細かく言えば気になるところがなかったわけではないのだが、小説全体の雰囲気も、最後のどんでん返し(古くさくってごめん)も、クロス装の贅沢な造本も、充分に楽しんだ。
■2006.8.1

「かみさま」(ポプラ社)。
宗教の本じゃなくて、紙についての本。本はもちろん、名刺やら便せんやら、ポストカードやら包装紙やら手帖やら、いろんな紙の話題を集めている。私にも、捨てるに捨てられない小さな紙の切れ端が詰まった箱があるが、何だか、その箱をそのまま本にしたような感じ。
紙のよろこびには、目のよろこびと手のよろこびとふたつあるけれど、つきつめて言えば、やっぱり手のよろこびだな。目のよろこびは、紙の上に載っている、インキや文字がもたらしてくれる。ってことは、紙は、目のよろこびを盛る器でもあるってことなのだ。