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■2006.9.30
黒沢清「映像のカリスマ」(エクスナレッジ)。15年ほど前に出された黒沢清はじめての本の復刊本。ボーナストラックつき。
オリジナル版のあとがきで、初めて体験した本づくりの顛末が書かれてあって、それを「極めて大がかりでドス黒い謀略めいた行為」と形容してあった。自分の仕事にたいしてこれほどの賛辞に遭遇できるのはこれが最初で最後であろう。感動した。
で、本作りに関わった人たちのたくらみによって、「映画がとうに忘れ去られた500年後、1000年後の未来、映画そのものが仕掛けたワナ」として世に送り出されたと黒沢清は言うのだが、映画の生まれた100年前から、この本が書かれた1992年までの歴史、そして、そこから現在までの15年、そして、映画なんかが消え去り、多分人類も消え去っている500年後、1000年後が、「私が読んでいる」というこのひとつの時間の中に平然と収まってしまっているところが映画的という以外ない、そんな本であった。 |
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■2006.9.22
林哲夫「文字力100」(みずのわ出版)。左側のページに古書の写真、右側に文章。紹介されている古書のなかには、マニアが驚いたり涎をたらしたりするものもあるのだろうが、そういう価値基準を知らない私にも充分楽しめるのが、この本の良さだ。文章も、それぞれの本の楽しさや貴重さを伝えていながらも、説明的でもないし、うんちくっぽくもないので、私にはとても楽しめた。
「文字力」というタイトルについては、まえがきに「文字そのものよりも、文字が牽引する本の魅力について書いてみたかった」と説明があって、表紙に置かれた文字に注目して選ばれた本たちなのだとわかる。でも、本の中で文字の存在が際だっているということは、たとえば衣裳やアクセサリーがステキ、というのとは根本的に違うことだと私には思える。タイポグラフィは意匠なのであろうが、表紙に置かれたタイトルを表す文字の群れが意匠であるとは、私には言いきれない。それはたぶん、私にとって、その本の存在の感触や、本の作用によって起こる私の心の動きや、本の内容そのものであるからだ。だから私はタイトルに、「……」がある本が苦手なのだ。「……」が、言葉ではなく心の動きを表す記号だからだ。 |
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■2006.9.18
伊藤礼「こぐこぐ自転車」(平凡社)。前から気になっていたのだけど、とうとう買ってしまった。タイトルがいいね。装丁もかわいらしい。
退職(大学の先生だったから退官というのか)間近になって自転車にはまってしまった顛末をつづる軽快なエッセイ。自転車だけじゃなくて、人生を楽しむことに関して天賦の才を持っている人。1ヶ月ほど前、午後のとっても中途半端な時間帯に偶然につけたNHKテレビで、この伊藤礼が出ていて、アナウンサーに自転車乗りのコツをあれこれ伝授していた。色っぽいおじいさんで、ノンシャランな雰囲気のようでもあり、ちょっと狂気の人のようにも思えた。自転車に関しては、眼がものすごくマジだった。
ある程度しっかり自転車に乗ろうと思ったら、やっぱりヘルメットは必須だそうだ。体力とか脚力の問題もあるけど、ここが結構ハードルだよね、実際問題。 |
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■2006.9.15
切手の世界というのは、何だかとっても魅力的。昔集めていた時のストックブックはどこへ行ったやら、収集の誘惑にたびたび襲われる。でもネットでちらほら眺めているだけでも、その世界がはてしなく奥深いことがすぐわかる。これにはまってしまったらもう最後、人生の混沌度は否応なく深まるに違いない。「やめておこうね」と自分に、二度三度、言い聞かせる。
「切手な北古賀」(WAVE出版)は、切手収集家の北古賀二郎さんを主人公にした、不思議な魅力の絵本。北古賀さんの切手にたいする、ホットでマニアックでオブセッシブな愛情を、柔らかくほのぼのとかわいらしく表現しているのだ。興味のない人には、どこがよいのかわかりづらい本かもしれないけれど。私のささやかな切手への思いは、北古賀さんに託すことにした。 |
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■2006.9.12
私の知り合いに、トマトを買うときには、必ず匂いを確認するという人がいる。トマトくさければくさいほど、よいのだと言う。青くさくて、土くさくて、虫くさい、トマトの匂い。私も大好き。
ページを開くたびに、ぷんとトマトの匂いしそうな、この絵本。ひとめぼれ。田中清代という名前は、初めて知った。30代の絵本作家。 |
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■2006.9.9
今年の夏は例年にも増して地味に過ごしたが、最大のイベントはと言われたなら、「ゲームの規則」という映画を映画館で観たことを挙げなくてはならない。同じ時期にほかにも古い映画を何本か観て、どれもよかったが、「ゲームの規則」は別格だった。楽しくて、そして、ショックだった。自分は今まで映画のことなんか何にもわかってやしなかったのだと痛感した。
映画の最初に謝辞が出て、「マルセル・マルタンに捧ぐ」とあった。そういえば以前、古本市でマルセル・マルタンの本を買ったはず、とごそごそ探していたら、この古ぼけた「ジャン・ルノワール自伝」(みすず書房)が出てきた。
映画監督ジャン・ルノワールが、画家オーギュスト・ルノワールの息子であることは、知識としては知っていたが、とがった鼻、頬骨の浮き出た険しい顔のあのルノワールと丸顔で人なつっこそうな雰囲気のあのルノワールが親子だというイメージがうまく飲み込めないでいたのだ。でも、この本を読んだら、まぎれもない親子であることが、瞬時に納得できた。父親について、父親が何を教えてくれたかについて語られる部分は、ほんとうに感動的だ。
「自伝」と名付けられているけれど、生い立ちなどをだらだら語るのではなく、印象に残ったできごとを取り上げて述べていくスタイルで、ひとつひとつが独立したエッセイが批評分のようだ。まだまだ映画が若かりし頃の話だが、現代の話として読んでも、ほとんど何も変わっていないように思えた。ルノワール自身の人柄を反映してのことだろう、失敗や悔恨を語っているときも陽気さは失われず、好奇心旺盛でいたずら好きの少年のように元気よく躍動する、そんな文章そのものも魅力的(翻訳もよいのだろう)。
しかし何より胸を打たれたのは、映画に欠かせないふたつのもの、映画そのものであるふたつのもの同じものが、この本のすみずみにまで満ち満ちていたことだ。そのふたつのものとは、すなわち、光と動きである。 |
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■2006.9.3
80年代論を続けて読んだ。こちらは宮沢章夫。「東京大学「80年代地下文化論」講義」(白夜書房)という本だ。2005年に東大でおこなわれた特別講義の記録。菊池成孔もそうだったけど、こういうおもしろい授業を東大はやっているのですね。この間テレビで、爆笑問題がやった特別講座もやっていた。
最初に、「「おたく」の精神史」が挙げられて、これを対極にあるものとして意識しながら講義を進めたいと宣言する。スネークマンショーとか、なつかしいものも出てきたりしてすらすらと楽しく読んだけれど、時折はさまれる生徒からの質問がなかなか鋭くて興味を引かれた。生徒とは、まさにこの80年代に生まれた人たちだ。
いちばん大きな発見だったのは、「かっこいい」ということが上であるという感じが、いまの学生には、いまひとつピンとこないということだ。つまり今は、クラブに行くような人とアキバに行く人は、お互いに「ゆるい」感覚の中で許し合いながら(あるいは無視しながら)共存していて、意外なことに、そこにヒエラルキーの感覚はないのだ。80年代には「おしゃれ」とか「とんがっている」というふうに、差異化していくことでものごとを理解しようとするやり方が主流だった。私自身のなかにも、この感覚がしみついてしまっているのを感じるが、そのことを今まで意識したことはなかった。でも言われてみれば、こういう感覚って、時代の影響によってもたらされた考え方のクセのようなものなのだね。今のように、細分化された無数の価値観が横断的に成立してしまっているような場では、差異化することと理解することは、イコールで結ばれない。でもじゃあ、感覚的な価値判断と普遍的な価値判断、そして一般的価値判断というのは、お互いにどういう関係にあるのかっていうのが気になってくるけど、こっから先は「トランスクリティーク」を読まなくちゃだめだな。 |
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■2006.9.1
大塚英志「「おたく」の精神史」(講談社現代新書)。
エヴァンゲリオンも観てないし、おたくが語るおたくの世界についてけるのか若干不安を持ちながら読み始めたけれど、とてもおもしろかった。おたくの精神史を語るとなれば、それは、自分史的な意味合いを持つのだろうから必然とも言えるが、著者の思いのたくさん詰まった労作だと思った。大塚英志にとって「おたく」は、主観的になりすぎることを恐れずに主観的に書かざるをえないテーマだったのだろうし、彼はその事実に従順であろうとしたのだろう。
自分自身がエロ漫画のフリー編集者であったころのことから話が起こされる。大塚英志に反感を持つ人から見ればこういうのは「言い訳」に聞こえるんだろうな、と思える箇所もあったが、当時見聞きしたこと、原稿に書いたり発言したこと、そして、それらを今の時点でどう思うかを、きちんと区別して書こうとしていると私には思え、そこに好感を持った。
昭和天皇崩御、ベルリンの壁崩壊、手塚治虫の死など、89年にひとつの終わりを実感するような出来事がいくつもやって来たにもかかわらず、ずっと「終わり損ねている」ような気がすると、あとがきで語られている。終わり損ねたというのは、私たちが新しい自分たちの言葉を見つけられていないことを意味するという。
いま、テレビのワイドショーなんかで、あちこちの新聞記事を読み上げるのは当たり前になっているけれど、初めて見たときとても驚いたのを覚えている(多分90年代始めだと思うけど)。ジャーナリズムが、プライドも何もかなぐりすて、他のジャーナリズムの言葉を借りてそれを自分の表現にしてしまうなんて、私には最初信じられなかった。それから、みのもんたの発明した、フリップの紙をペラペラめくっていくやり方。あれでカメラは語ることをやめ、中吊り広告のような文字を映すだけの道具になった。自分たちの言葉を探すことを最初にやめてしまったのは、テレビなんじゃないかなと思った。 |
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