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■2006.10.25
「幸福の擁護」(みすず書房)。1996年に出た今江祥智の児童文学論集。いろいろな雑誌に書かれた文章や、本の解説としてかかれたものが集められている。
私は児童文学の熱心な読者ではないし、この本には幾つもの知らない名前や読んでいない本が登場するのだが、赤線をひいてしっかり胸に刻みつけておきたくなるようなところがたくさんあった。今江祥智の文章にも、そして、今江が心をこめて引用する文章にも。
児童文学と一般の文学の垣根がどんどん低くなってきて、じゃあ、そんな垣根は取り払ってしまえという議論があることを述べつつ、でも、取り払う前に子どもの文学とは何かをもう一度しかと見極めたいと書いてある。それが、冒頭におかれた表題のエッセイ「幸福の擁護」だ。
テレビは、いま、教育が問題なのだと言っている。ほんとうに問題なのは、幸福なのかもしれない。 |
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■2006.10.20
長大な「ゲド戦記」になかなか手が出ない私は、でも、ル=グウィンには興味があって、最近エッセイや評論や短編をぽつぽつ読み始めた。彼女の文章は感情豊かで、そして知性的。ネガティブなものもきちんと見つめ、受け止めるが、ユーモアを忘れない。繊細であってもセンチメンタルではない。ときに応じて必要な大胆さを出すこともできる。
そんなル=グウィンという人は、この「夜の言葉」(岩波現代文庫)にある3人の子どもたちが幼いとき、それぞれに(つまり合計3回)「指輪物語」を読んで聞かせたというエピソードに象徴的かもしれない。また彼女は「どうしたら作家になれますか」という質問には、いつも次のように答えるのだそうだ。「まず、タイプを練習しなさい」。そして相手が怒ったり呆れたりしながら重ねて「どうしたら作家になれますか」と尋ねてきたらこう答える。「書くことです」。 |
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■2006.10.18
「デザイナーと装丁」小泉弘(印刷学会出版部)。原弘以降、活躍したブックデザイナーたちを取り上げながら装丁の流れを概観する。コンパクトに要領よくまとめてあり図版もあって、教科書によさそうな一冊。
装丁史に残る名品とも言うべき有名な本の数々の写真を、「すごいね」「かっこいいね」とつぶやきながら改めてしげしげと眺める。でも、初期の本は「すごい」という感嘆が即「読みたい」という衝動に直結するのだが、現在に近付くにつれて、それが難しくなる。「わあ、かっこいい」だけで終わってしまう。一体なぜだろう? |
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■2006.10.13
ジョン・クローガン「マーリー」(早川書房)。
サブタイトルは「世界一おバカな犬が教えてくれたこと」とあって、マーリーという名のラブラドール・レトリーバーのペットとの出会いから別れまでを書いたエッセイ。ペットのおのろけ話は時々目にするけれど、著者が新聞のコラムニストだけあって、笑わせたり、ほろっとさせたり、緩急自在のテクニックで読む者をあやつってくる。私もそこに乗っかって、思う存分楽しんだ。ほんとに、声をあげて笑っちゃったり、涙をこぼしたりしちゃった。
やんちゃな大型犬を飼うことの大変さは聞いたことあるけれど、この本を読む限り想像以上。こちらも負けないくらいの体力や行動力や好奇心を持っていなくちゃ無理かも。そして、どんな犬であっても一緒に暮らすことを楽しむ精神がなくては。それにしても、心の広い飼い主に恵まれたのはもちろん、家も庭も広くて余裕のある環境で飼われるマーリーみたいな犬は幸せだな。
多少出来が悪くても、並み外れた個性の持ち主でも、相手が犬ならば「仕方ないな」で済ませることができる。飼い主は譲歩しながら折り合いをつけ、ちょっと変わった犬との暮らしを無条件に受け入れる。世間も「困った子だね、でも、かわいいね」と放っておいてくれる。ところがこれが人間の子となると、そうはいかない。みんなと同じことができないと、何とか原因を探し出して治療したり教育したりしなくちゃならない。楽天的な寛容さが失われ、本人も周りも苦しむ。人間はやっかいだ。人間はつらいよ。 |
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■2006.10.9
片倉もとこ「アラビア・ノート」(ちくま文庫)。
この本が最初に世に出たのは1979年、文庫になったのが2002年。でも、驚くほど新鮮な魅力を持った本だ。
1960年代からアラブ遊牧民たちと行動をともにしたフィールドワーク日記。アラブの人たちを見る視線が学者のものというよりも私たちに近く、それがこの本の魅力を作っているのだろう。アラブを知るという意味でもおもしろいのだが、異文化と出会うとはどういうことなのかという面でもおもしろい。私たちのなかからはとても生まれてこないような考え方や発想、感性は、驚きではあるが、その理由や背景を知ることによって理解可能なものとなり、そこから親しみと尊敬がわいてくる。
たとえば、ベドウィンたちはテントをはってしばらくすると、特に理由がないように思えるときに、ふと移動するのだそうだ。テントをたたみ家財道具をまとめるのはそれなりに面倒なことなのに、ちっとも億劫がらずにけろりとした表情でその作業をこなす。もっと便利な場所とか、良い場所に移動するならともかく、たいして変わり映えのしない場所だったり、逆に子どもの学校から遠くなったりする場合もあって、著者も最初は理解に苦しむのだが、1年くらいして移動の理由がのみこめてきたという。それは、人間がひとつの場所にじっとしているのが頽廃だという感覚なのだ。1箇所に停滞すると、空気がよどみ、精神が穢れてくるような感覚があるらしい。そのように説明されると「なるほど」と思う。真新しい荒野へと行くことはベドウィンたちにとって、心身を洗い浄め、精神をリフレッシュさせ、自由を確認する欠かせない行為なのだ。「1箇所におちついて家を構えること」を人生の目的にしている私たちと正反対。しかもベドウィンの話を聞かなければ、自分が無意識のうちに、おちつくことを目的としてしまっていることにさえ気づかない。呆れちゃうけど、人間ってそんなものなのだ。 |
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■2006.10.4
井田真木子「かくしてバンドや鳴りやまず」(リトルモア)。
私がこの人の本に触れたのは、何を隠そう、亡くなってから。生前交わりのあった人によるその死を悼む文章を偶然いくつか読んだのだが、どれも、特別な調子を含んでいるように感じられた。44才という年齢のことや、死が突然だったことだけが理由ではない動揺を、どの文章にも感じた。井田真木子という存在は、それぞれの人のなかで、それぞれに特別の場所を占めていたのだ。それが強く伝わってきた。
その理由は、著書を1冊読めばすぐに理解できた。正真正銘、その人だけにしかできないオリジナルな仕事。みずからの人生を重ね合わせた仕事。それが、井田真木子のやってきたことなのだ。
ノンフィクションを読むとき、私にとって、もっとも重要事に感じられるのは「私」の問題だ。書き手が取材対象とどう関係を持つか、というのはノンフィクションというジャンルの抱える普遍的テーマであることは自明だけど、そういうこととは関係なく、ノンフィクション中の「私」に、私はいつも過敏に反応してしまう。「私」の問題に無神経であるように思われる書き手にはイライラしてしまうし、逆に、とても注意深い人には、どういう意識で書いているか、どういうテクニックを使っているのか探るようにして読んでしまう。つまり、私は、ノンフィクションのよい読み手ではないのである。
この本は、雑誌「リトルモア」での連載の単行本化。とは言っても、10回の予定だったのが3回で終わってしまっている。その死によって。彼女が10回をどういうふうに進めていくつもりだったのか、企画書も収められている。それは、今まで読んだことのないような作家論だ。
第一章はカポーティとランディ・シルツ。シルツは、ゲイを題材にした本を何冊か書きエイズ死した作家だ。でも、これはまだいい。第二章は、「きけわだつみのこえ」と村上春樹とマヌエル・ベニテスという闘牛士、ラピエールとコリンズというジャーナリストたちが登場して、ひとつの文章を成しているのだ。これらは、みな、井田真木子という1点だけでつながっている。しかし、文章自体はごく客観的に書かれ作家の存在感は極力抑えられ「私が、私が」とでしゃばってくることは一切ない。読んでいる間、私はそこに登場する人たちについて、ありったけの想像をめぐらせ、力いっぱい自分のほうに引き寄せながら読む。そして、本を置いてしばらくたってから、この稀有な文章を書いた人のことをぼんやり感じるのだ。この人のことは、本に書かれていること以外はほとんど知らない。でも、本から伝わってくるのは、ふつうの人よりはかなり大きな生き難さを抱えていながら必死で生き続けようとする人間の姿で、それを思うとやるせない。 |
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■2006.10.1
ノワール系の小説や映画に惹かれる気持ちはあるのだが、何となく全体像がわかりにくいというか、簡単に入り込めない。ミステリーには強い興味を感じないがノワールには感じるという半端ものの私にはノワールを語る資格さえない。そもそもノワールなんだからうっかり素人が足を踏み入れてはいけないのかもしれないが、盗み見てみたい気持ちは消すことができない。私のような腰抜けのノワールファンにも親切な滝本誠氏の本は、だから貴重なのだ。
この「渋く、薄汚れ。」(フィルムアート社)のまえがきによると、映画ジャンルでは40年代50年代が「フィルム・ノワール」のクラシック期であり、80年代が「ネオ・ノワール」の台頭期となる。滝本の定義によれば、80年代の「ネオ・ノワール4B」は、「白いドレスの女」「ブレードランナー」「ブルー・ベルベット」「ブラッド・シンプル」とあり、なるほど明快だ。
ハリウッドゴシップなども散りばめられて、楽しかった。 |
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