■2006.11.26

小島信夫「残光」(新潮社)。
まったく、この小説をどう説明したらいいのだろう。かろうじてひとことで言い表すとすれば、生きている小説、というほかない。いきいきしているとか、躍動する、という意味合いではなく、ページの上に留められた作品というより、これから先もどんどん変わっていったり、場合によっては消えてなくなったりしちゃうんじゃないか、と思えるような小説だったのである。
老人の作家が登場して、本や雑誌を読んだり、知り合いに会ったり、会ったときに文学の話をしたり、保坂和志が登場して一緒に青山ブックセンターでトークイベントをやったりする。妻は施設に入っているらしい。ちょっと読むとたんなる身辺雑記のようなのだが、そのうちに、しばしば時間が前後したり重なり合ったりする。「いま」と言ったってそれが、説明している事柄がおこったときなのか、それとも、小島信夫(らしき小説家)が書いている瞬間のことを指すのかわからない。もしかして、私がそれを読んでいる「いま」だったりして。それから、実名(かどうかは私の知らない人なので何とも言えないが)とイニシャルが同時に出てきたりして、それらが同一人物を指すとはわかっても、実名で呼ばれる人とイニシャルで呼ばれる人の存在というか実体がどうもあやうくなってくる。でも、それが「この人」と限定された所で、読者の私がその人を知っているわけではないのだが、じゃあなんで「この人」っていうふうに思えるのだろう。
うまく説明できないけれど、私が心の中で「あの人は」とか「あの時は」と考える時、その事自体はすでに体験された過去の出来事なのだが、私がそれを思い出しているのが今である以上、私の心のなかの「あの人」や「あの時」も今の存在として生きてあるわけで、これは一体どういうことなのだろう、っていうか、私の心のなかって一体どこ、私って私の考える私だよね、じゃあ、それは考えられた私であって本当の私じゃないんじゃないだろうか、という感じを、こんなふうに野暮ったくではなく、きわめて颯爽と実践するのだ。
何となく連想したのは映画のこと。映画は向かい合っているふたりを同時に映すことはできない。その映画の不自由さを生きるため、たとえば小津は向きあうふたりをそれぞれ真正面からとらえ、そうして、映画の不自由さが映画となる。この小説も同じように、小説の不自由さを小説として生きている小説なのだと言えるような気がする。
いや、つまり、要するに、何も考えずただひたすら読んでひたすらおもしろいっていうことが言いたいだけなのだが。
■2006.11.23

「ふしぎなナイフ」(福音館書店)は、ふしぎな絵本。写真と見まごう精緻な絵で描かれたナイフが、曲がったり、溶けたり、伸びたり、縮んだり。ページをめくるごとに簡潔な動詞の展開があって、そこに絵がきわめて絵が反応する。このきっぱりとした自由さが、こちらをドキンとさせる。ユーモアと恐怖、絵本に欠かせないこのふたつの要素が、実に見事なスパイスとして配合されている。
■2006.11.20

茨木のり子は、正直言って今までは、あまり好きとは言えない詩人だったのだ。でも初期のものから読んでみると、今まで気づかなかった、この詩人のまじめさやひたむきさ、そして、謙虚さのようなものが伝わってきて、じんと感動した。
私が買ったこの「茨木のり子詩集」(思潮社)は、2002年第26刷のもので、邪推するに「倚りかからず」が話題になったあと、カバーのデザインが変えられ出されたのではないかと思うが、なんと初版は1969年。40年前のものがそのまま出されているなんて、岩波文庫と、この現代詩文庫だけなんじゃないか。作品の最後には「「櫂」小史」という文章があって、おもしろかった。川崎洋に誘われて二人で同人誌をスタートさせ、やがて吉野弘や谷川俊太郎や大岡信らが集い、若い詩人たちがわいわいやっている様子が伝わってくる。くせ者ばかりの集まりだから、多少はなまぐさいこともあったのではないかと想像するが、茨木のり子の書く文章の中では、みんな、ひたむきに恋をしたり貧乏をしたり文学をしたりしている。
この本でもうひとつ胸打たれたのは、カバーのそでにある茨木のポートレイト。モアレだらけの不鮮明な写真なのだが、若い頃の茨木の顔は一度見たら忘れられない。黒ぶちの眼鏡にまとめ髪、やや斜めを向いた顔はしっかりした目鼻だちで、少し遠くを見ている。飾り気もなく地味な姿で一見厳しそうなのだが、他人を拒絶するばかりではないしっとしとした優しさもにじみ出ている。
■2006.11.13

「エスカルゴの夜明け」(アートン)。
先日トムズボックスへ行ったら、宇野亜喜良をやっていて、本もたくさん並んでいた。人気なのですね、宇野先生。
私がこの本を買ったのは、蜂飼耳目当て。ちょっと意外な取り合わせと思ったが、読んでみたら案外しっくりきた。前半は文章が先でそれに絵をつけたもの、後半は、宇野作品が先で、それに文章がつけられた、どちらもそれぞれのテンションの高さで、きちんと一冊におさまっている。
■2006.11.5

宮沢章夫「考える水、その他の石」(白水社)。
1995年に出された本の改訂新版。あとがきの言葉を借りるなら「震災以前、オウム以前」に書かれた文章だ。この本を今再び世に出そうという版元の目論見は、なるほど的を射ていて、内容としてはこの間読んだ「東京大学「80年代地下文化論」講義」(白夜書房)の、続編、あるいは実践編として読めそうなほどだ。でも文章というか語り方は、やはりどこか生硬さというか、青さみたいなのが感じられて、馬鹿みたいだけど、何だかちょっとほっとしたりもしたのだ。
お芝居にはあんまり興味ないくせに、宮沢章夫の本はなぜか読んでしまう。でも、エッセイよりも小説のほうが好きかも。
■2006.11.1

「ここが家だ ベン・シャーンの第五福竜丸」(集英社)。
唐突に目の前に現れたベン・シャーン。第五福竜丸をテーマにした作品群があると聞いたことはあったけれど、こうやって本の中で出会えるとは思っても見なかった。絵が発表されたのは1950年代だと言う。
絵がよいのはもちろんのことだが、アーサー・ビナードの構成と文章の良さが、この本を成功させていると思う。事実を表す言葉だけを使いながら、私たちに、その痛み、苦しさのずっしりとした重みを伝えてくる。巻末のあとがきも、心にしみる。