■2006.12.31

恩田陸「ユージニア」(角川書店)。
デザインの雑誌などで装幀の特集が組まれると必ず登場する本。「文字の版面をちょっと傾けました、ほんのちょっと、気づかないくらい」と立ち読みしたインタビューで祖父江氏は語っていたけれど、気づかないどころか、読み始めた最初のうちは「重大な事故が起こっている」と頭の中の非常警報が鳴りっぱなしで困った。職業意識のせいかもしれないけど、まんまとしてやられたと言うべきか。
それはともかく小説のほうも、ひたひたと怖さの募る内容で、大掃除そっちのけで一気に読まずにいられなかった。でも、最後のページまで来て「え、そんな……」と叫んでしまう。「事件の真相を教えて。犯人は誰?」と誰かの胸ぐらを掴んで詰め寄りたかったけれど、そんな相手もいなかったので思わずネットで検索してしまう。「真相はこうです」と解釈してあるページには行き当たらなかったが、発見もいくつか。さすが、ミステリーを読み慣れている人は、緻密に読みこなしている。「あの言葉の意味は何なのだろう」「あの人は一体誰だったのだろう」と考えているうちに、私の2006年は終わってしまったのだった。
■2006.12.20

よしもとばなな「ベリーショーツ」を(東京糸井重里事務所)を、はずみで買ってしまった。だって、なんたってチャーミングな本なのだ、これが。小さなサイズで横型、子どもが描いたみたいな(イノセントな、というより、脱力系というニュアンスで)、わけのわからない生き物たちの絵がいっぱい入っていて、文字組は天真爛漫に崩れていて(1行7文字なんてページもある)、しかも、本に挟んでなおかつ35センチも垂れ下がる無意味に長いしおり、途中に別丁で本文とは何の関係もない写真が一枚(しかも両面印刷してある)、おまけに、本文中6文字だけ金色が使われている。帯の裏にも、かわいい絵が! とどめは、小口に描かれたイラスト。前から見たときと、後ろから見たときで違う絵が浮かび上がってくる。そう、これは、日本装幀史上不朽の名作「全宇宙誌」で使われていた(実物を見たことはないけど)手法ではないか! じゃーん。
でも、この本の真の価値は、こういった意味のない贅沢が、内容ときっちり拮抗しているということでしょうね。吉本ばななのエッセイは、幼い息子との日々がメインの楽しくてかわいい話ばかりで、やっぱり職人的にうまい。ケラケラ笑いながら読んでいて途中「あれ?」と思って、その原因を考えてみたら、ひとつひとつのエッセイの長さがバラバラなのだ。雑誌などに書かれたエッセイをまとめた本、というのはよく読むけれど、そういうのは、あらかじめ長さが決められているので、書く方も読む方もそのリズムを保つ。けど、この本の文章はウェブで発表されたものだから文字量に枠組みがない。なるほど、ウェブに書く自由さってこういうものなのだな、と、今さらながら思った。
小さい本が全身全霊でこちらを楽しませてくれるハッピーな本。うむ、確かにこの世は小さい面白いことだらけ。
■2006.12.12

瀬尾まいこ「図書館の神様」(マガジンハウス)。
学校の図書室を舞台にした青春物語。とは言っても、主人公は生徒ではなく新米の先生なのだが。「文芸部」とか「文学は」なんて取扱注意な言葉も、真面目すぎず不真面目すぎず、ごくごく素直に受け止められる、ほどよい仕上がり。ふわふわと軽すぎるのではないかと警戒しながら読み始めたけれど、すっきり爽やか、楽しく読めました。
■2006.12.11

「死顔」吉村昭(新潮社)。
正直、この作家の作品を読むのは初めてだったのだ。初めてが遺作というのは作家に申し訳ないのかもしれないが、こういうことは、実際よくある。男くさい歴史物を書く作家というイメージがあって食わず嫌いしていたのだ。この本には「クレイスロック号遭難」という、不平等条約改正を題材にした短編も収められていて、なるほどこういう小説のおもしろさがあるのかと納得したのであった。
しかしやっぱり、ほとんど予備知識のないまま読み始めた冒頭の「ひとすじの煙」から始まる、そのほかの4つの短編がどれも死をテーマにしていて凄みがある。何十年もひとつのことを自らの仕事としてきた人が、生あるうちに残せる仕事がそう多くないと覚悟し、ありったけの技を真心をこめて磨き上げたような、そんな緊張が作品を貫いている。誰もが、頭を垂れ黙って読むしかないような作品たちだ。
黒い帯はあからさまに喪を示しているかのようだが、表紙にさりげなく駒井哲郎が使われている。
■2006.12.5

清岡卓行を続けて読む。特別なファンというわけじゃないけれど、2か月くらい前に、その死を知らずに何となくという理由で「薔薇ぐるい」を読み返したせいで気になってしまうのと、「ひさしぶりのバッハ」も、この「断片と線」(講談社)も、落ち着いた瀟洒な装幀が好ましく思えたからかもしれない。この「断片と線」は、晩年、5年間くらいの間に文芸誌などに書かれた作品や、文庫の解説などが収められている。
本の最初に表題作「断片と線」があって、自分の記憶のなかにある断片の情景が小説や詩として形にされることもなく、自分の死と一緒に消えてしまうのは、物書きとして寂しい、とあって、若い頃の思い出などが語られる。自分の中の記憶というものは、自分の意志で消したり変えたりできないだけ実在感のあるものなのだが、形がないし、言葉でしかその存在の姿を現すことができないとは、まったく不思議だ。この本は全体にわたって、そのような遠い記憶をさぐるような話や、今はもうこの世にいない詩人たちの話題が多く、読んでいるほうも、何だかさみしくなってしまうのだけど、文章そのものは、まろやか。いいワインを飲むとき、人は口のなかで玉をころがすようにして味わうが、それに近い感じ。読んでいて心の落ち着く本だった。
■2006.12.3

「ひさしぶりのバッハ」(思潮社)は、亡くなった清岡卓行の死後に出された詩集。こういう言い方は不謹慎というか失礼なのかもしれないが、この本を読みながら思い出したのは、病院を出たり入ったりしながら書きつづった作品が幾つも収めてあるような、最晩年を迎えた男性詩人の詩集だ。もちろん個性はそれぞれだが、詩人という生業ゆえに長年生と死を凝視し続けきた男たちが、老い、そして病んで、なおかつ書く詩には、共通した何かがあるように思える。ちょっと観念したような、でも、決してあきらめてなくって、淋しそうだけど落ち着いていて……。いや、もしかしたら彼らの内面は激しく恐れたり抗ったりしているのかもしれないが。
そういう詩に見られる何とも言えない美しさやあたたかさは、私には、ぼんやり輝く玉として感ぜられる。こういう詩集を読むたびに、「これは一体何なのだろう?」とこの不思議な玉に心惹かれてしまうのである。