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■2007.1.30
年末年始にかけて、あちこちで目にした「2006年のベストテン」みたいなランキングで、必ず上位に挙げられていた本「わたしを離さないで」(早川書房)。しばらく前に買ってあったのを、やっと読んだ。
前半は、主人公「わたし」が語るイギリスのどこか田舎にあるヘールシャムという寄宿校らしきところでの思い出話が、延々と続く。思い出話というよりは、もっとも身近な存在だったルースとトミーというふたりの友だちとの心理的なやりとりだ。お互いのことを深く思いやり、共感を分かち合いながらも、小さな出来事に反応し、傷ついたり意地を張ったりしてしまう。そんな感情の変化を、これでもかというくらい細かく描写していく。そういう心の流れ自体は、私たち自身の心でも日常的に起こっているごく自然な反応で、まさに「人間的」なのである。「人間的な」彼らの姿が延々と続いていくところに小さな謎が生まれ、「彼らが(本来の意味での)人間ではない」という物語全体を覆う大きな謎と次第に絡み合っていく。
カズオ・イシグロは以前「日の名残り」を読んだだけだが、どちらも、とても狭い限られた世界で最善に生きようとする人の姿を描いている点が同じだと感じた。「日の名残り」の主人公スティーブンスは過去を奪われていて、「私を離さないで」の「私(キャシー)」は未来を奪われている。そのなかで、もっとも誠実に気高く生きる生き方を探しながら、ふたりは生きている。
本当は臓器提供とか、もっと現実的な問題意識をこの小説に感じるべきなのかもしれないが、私にはそういうふうには受け取れなかった。レビューには「ラストで明かされる驚愕の真実!」というような言葉がよく見られたけれど、その「事実」のもたらす驚きや恐怖は、二義的なものだと思える。私たちは、自分がこの世に生まれた理由と目的を探し求めながら生きるが、あらかじめ、理解可能な理由と目的のもとに生み出された人生のこの苦しさは、一体何なのか。
寄宿舎、病院といった場所を舞台に、小説全体のクリーンで無機質な空気を際立たせながら、人間の感情を巧みに織り込んでいくテクニックは超人技。一歩間違えばキワモノっぽくなりがちなモチーフを使った、かなり変わった小説であるのには違いないのだが、何だかすごく正統的な文学を読んだような読後感が残る。目先のことにまどわされてふわふわと飛んでいきそうな私の心に、ずっしり重しを与えてくれたような気がする。 |
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■2007.1.18
講談社文庫に「戦後短編小説再発見」というシリーズが12冊もあったのは知らなかった。書店などでは目にしていたのだろうが、ちっとも気に留めなかった。ところがふとしたきっかけで、そのなかの一冊を読んだ。この巻のテーマは「男と女――青春・恋愛」となっていて、野間宏、石坂洋次郎、三浦哲郎、向田邦子なんかの短編が11篇。小説の原初的な力に触れたようで、どれもおもしろく読んだ。
いちばん思いがけない出合いだったのは福田章二。忘れていたけれど、庄司薫だ。中学生の頃「赤頭巾ちゃん」シリーズを夢中になって読んだあと「喪失」を読んで、まったく違う世界だったのに面食らった記憶がある。「喪失」は、当時の私にとって、あまりにも残酷で冷淡、やさしい人と勝手に親近感を持っていた相手が実はすごく意地悪で皮肉屋だった、という感じだった。その骨張った文章は、思いっきり突っ張ってるというか気負っているようで、「若気の至り」的な印象も抱いた。まあ、中学生に「若気の至り」なんて言われたくないだろうが。
今読めば、ごつごつした触感はあるものの、それさえも瑞々しく感じられる。それほどこちらが干からびてるってことか。
プロフィールを見れば、今年で70才だ。どうして小説やめちゃったのか、誰か聞きに行ったりしないのかな? |
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■2007.1.10
「四谷シモン前編」(学研)。
「前編」とあるけれど、これが今までに発表された文章(対談を含めて、活字になったことば)がすべて収録されているのである。確かに400ページもあるとはいえ、全部集めたのが一冊の本に収まってしまう量だとは、ちょっと意外。あちこちで名前を見掛ける人、というイメージだったから。とは言っても、芝居しているのを見たのも、3年くらい前に山口智子が向田邦子の役をやっているドラマをテレビで見たのが初めてだったのだし、人形の実物も見たことがないのだから、この作家については何も知らないに等しいのだ。
文章は、正直言って流麗とは言い難く、ぎこちないような、たどたどしいようなところもあるのだが、体の中を流れる血そのものが美しく薫り高いのにちがいないと思わせるような、魔力を持っているのである。ああ、この人はこんなふうに、時には肉体さえも捨てて剥き出しで生きているのだ、と。
金井美恵子の本を読んでいると、時々「四谷シモンが……」というのが出てくるんだけど、こちらの本では「金井美恵子ちゃんが……」とあって、ちょっと微笑ましかった。 |
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■2007.1.5
安岡章太郎「カーライルの家」(講談社)。正直言って、ジャケ買い。家に帰って確認したら、つい先月、その大胆不敵なデザインにつられて買った吉本ばななや言いまつがいの本と同じデザイナーの名前が。……また、やられてしまった。
カーライル、カーライル……、えっ、誰だっけ? そうだ、漱石の「カーライル博物館」だったね……なんて、まったく頼りない読者なのである。
函にハトロン紙、函から取り出して、また、ハトロン紙。でも、そういう装いが似合う文章というものが、この世にはあるのだ。単なる褒め言葉でも、皮肉でもなく。でも、安岡章太郎を、かつて同時代文学として読んだ人には、この装幀は「やりすぎ」と感じるだろうか。私は、こういうのを安易に嬉しがるから、ニヤニヤしながら読んで、ニヤニヤしながら本棚にしまった。 |
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■2007.1.2
「水辺にて」梨木香歩(筑摩書房)。
私にはとても意外なことに思えたのだが、梨木香歩は、この本でカヤックを購入して水上へと漕ぎ出すのだ。彼女の文章は、内面へと沈みこんでいく力と外へ働きかけていく(とは言っても、具体的にはごく近所への散歩だったりするのだが、そういう実際の距離とは関係なく)力の均衡が魅力と感じていたのだが、この本では、いい意味でそのバランスを崩しながらぐっと大きく外側へと踏み出す印象がある。そういうふうなときに起こりがちな小さな事件(もともと非力な上に漕ぎ疲れた体でカヤックを車に乗せて運ぶ方法を考え出すまでの顛末とか、北海道で泊まったホテルの裏山で遭難しかける話とか)が、さらにアクティブな印象を強め、今までにない朗らかさがプラスされているようにも感じる。そう、朗らかさ。それは、解放、と言ってもいいのかもしれない。
その人がいま、何を見、何を考えているか。それが、いまという時代を生きる自分を確認するひとつの指標となる。梨木香歩は、私にとってそういう作家のひとりである。 |
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■2007.1.1
映画「犬神家の一族」のセルフカバーが公開されると聞いたけれど、お正月と言えば横溝正史という風習はいつごろ出来上がったのか。あの絢爛豪華な雰囲気とひたすらウエットな日本情緒と微妙な恐怖感が、新年特有のゆるゆるの幸福感にほどよい刺激なのかな。
この坂口安吾の「不連続殺人事件」(角川文庫)もちょっと似たような雰囲気があるかも。売れっ子作家や画家や女優などが山の中の別荘に集められ、そこで連続殺人事件が起こるのだが、登場人物がみんな鼻持ちならない人ばかり。私なんかには到底犯人がわかるはずもないので、ひたすら人間模様とお芝居を見ているようなセリフのやり取りを楽しむ。坂口安吾が、こんなふうにエンタテイメントに徹した作品を残しているのは、始めはちょっと意外だったのだけれど、でも、これを読み終わってから堕落論だの有名な作品をいくつか思い返してみると、今まで見えてなかった安吾の美意識やエンタテイメント精神が見えてくるのだった。 |
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