■2007.5.20

田口久美子「書店繁盛記」(ポプラ社)。
去年に出た本だけれど、私のよく行くいくつかの本屋さんでは、ずっと目立つ場所に置いてある。書店員の皆さんに、かなり好かれているに違いない。私が買った本は第4刷となっていたけれど、読者の書店員率はどれくらいなのだろうか。
本屋さんの裏側をかなりあけすけに書いていて(いや、ご本人はかなり随所に配慮をほどこしたのかもしれない)、何より語り口がリズミカルで、楽しいおしゃべりを聞いている感じで読み進められる。いや、やっぱり、口調の問題ではなくて「現場の声」のおもしろさだな。現場という生き物がそこにあって、それを扱う大変さを楽しんでいる人がいてこそだな。
■2007.5.18

「本づくりのかたち」芳賀八恵(8plus)。
著者は個人出版社8plusをやっていて、同じように独自の形で出版活動をしている人へ取材した本。取材先は牛若丸、空中線書局、young tree press、トムズボックスなどなど。それぞれのインタビューは、そんなに長くないので、作り手が自分の思いを語るというさらっとした内容になってしまっている。私だったら、おとなしく「思い」を聞いてたりせずに、台所事情を根ほり葉ほり聞いたり、「そもそも、あなたにとって「本」の定義とは?」とか、しつこく絡んでしまいそう。でも、取次への恨み節とか、そういった屈託のないところで、自由に本を作っている感じが、彼等の魅力なんだろうな。
120ページ、ソフトカバーの小さい本だけど、定価は1800円。普通に考えたら、かなりお高めの本だけれど、それでも買う読者が、現にちゃんとここにいる。それでいいんだろう。
■2007.5.12

豊崎由美「どれだけ読めば、気がすむの?」(アスペクト)。
前作「そんなに読んで、どうするの?」も読んだし、もう充分ではないかと思いながら買ってしまう。まるで、叱られたくていたずらする子どものように。この後ろめたさは、いったいなぜ?
それはきっと、この本に書いてある多くが読んだことのない本の書評で、これをきっかけに実際に読んでみる本がせいぜい2、3冊だとわかっているから。でも、本屋さんで目にすると読みたくてうずうずしてしまうし、読んだことのある本が登場すると嬉しくなってしまうし、実際に読んでみようと思えるその2、3冊の存在が、限りなく貴重に思える。
この本にある書評は2000年からのもの。例えば、ここ3年ぐらいの本は読んでないなりに何となく記憶にあったりするが、2000年のものとなると、全然知らないものも多い。まえがきには、たった5年間に絶版になったものが多くて愕然とするとあるが、とくに翻訳小説の世界の生き残り競争の激しさは、本当にすごい。この状況下での書評家というのは、砂地に種を蒔くというのか、砂漠の水まきというのか、とにかく大変な仕事に違いない。頭が下がります。
■2007.5.7

「見続ける涯に火が… 批評集成 1965-1977」(オシリス)。これは、永遠に終わらない本だ。
1965年から1977年までに、雑誌などに発表された中平卓馬の文章を集めた分厚い本。もっとも、分厚いということにはあんまり意味がない。だって永遠に終わらない本なのだから。
考えてみれば私はそんなに写真に詳しいわけじゃないし、60年代の独特な雰囲気も知らないのだから、この本を読む資格が私にあるのかなとも思ってしまうけれど、でも、文章のゴツゴツがひたすら胸にせまってきて、繰り返し読んでしまう。
ここにあるのは一体何なのだろう? 時代の証言というのとも、もちろん違うし、内容が普遍的だから今こそ読まれるべき、というような言い方でも、違う。有名な「なぜ、植物図鑑か」に、「われわれの目は眼窩の内側にひきつけられ、反転していた」という一文があるけれど、まさしく、反転に次ぐ反転。私が物を見て、物が私を見る。見て、見られて、そして、見えない。終わりのない反転がここにある、とでも言えばいいのか。
本の最後は、海岸でフィルムを焼いている文章。すごく痛い。
■2007.5.3

星野博美「迷子の自由」(朝日新聞社)。
鬼海弘雄の写真のあとに見ると、この写真家の写真は、いかにも賑やかに「おのれ」に彩られているように見える。モノクロの写真を見た目で、一転、カラフルな写真を見ているからというわけではない。いま、この光景を目撃しているのは私だけだという確信と気負いを、写真から感じるのだ。
タイトルは、「迷子の自由」。帯には、「今日は道に迷おう」とある。すでにあらかじめ、必然的に迷子になっている鬼海弘雄との勝敗は明らか。いや、勝ち負けを言うのはおかしいけど。
決してつまらない本ではなく、写真も文章も楽しんだけれど、「東京夢譚」と続けて読まなかったら、楽しさは3割増しだったかもしれない。
■2007.5.1

鬼海弘雄「東京夢譚」(草思社)。
写真と、そして、エッセイ。撮影日記ふうに、見たもの、出会ったことがらをたんたんとスケッチしていくエッセイは、写真と同じくらいに心にしみた。
エッセイ中に「写真はシャッターを押せば、誰にでも写せる」という一文があるけど、鬼海弘雄は、この事実をもっとも冷静に(あるいは謙虚に)受けとめている写真家かもしれない。写真に自分を出すという欲を見せず、かといって、自分を消そうとする欲さえ見せない。この本には「夢譚」という名が付けられているが、夢に特有な奇妙な主体のなさというか、欲のなさというか、感情の脈絡が断ち切られているゆえに高潔な感じが、ふさわしいように思えた。
大言壮語もしない、かと言って、「情景」を探すというミニマルな楽しみにも走らない。そのような意味づけから逃れうるひとすじの細い線が、本来の意味での「体験」だと、この写真家は感じているのかもしれない。そして、この本でその細い線は、ゆるやかな螺旋を描いている。
鬼海弘雄は目だけでなく、耳もよい。文章からそれがわかる。この発見もおもしろかった。そう考えてみると、どこからか聞こえてくる音に私たちが感じ取る「気配」と、この人の写真に感じられる「気配」は、同じ濃さのようにも思われる。