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■2008.5.31

佐野洋子をもう一冊。「シズコさん」(新潮社)。
母親が呆けて寝たきりになり、佐野洋子は、深い確執のあった母の一生を想う。佐野洋子が四歳のとき、母親と手をつなごうとした瞬間、舌打ちとともに手を振り払われた。そのときに二度と母親と手をつながないと決意し、それから「きつい関係が始まった」という。また、両親が期待を寄せ溺愛していた長男が死んだ。佐野洋子が双子のように仲良くしていた兄だった。戦争もあったし、日本はみんな貧しかったし、今のような自由もなかった。家族それぞれが心の中に重たい石を抱えていた。そういうふうにして生きてきた母と娘だった。
その母が痴呆になり、可愛い「子犬みたいな子猫みたいな」存在になった母とつきあううち、確執がとけていく。あふれ出る涙。佐野洋子は言う――「神様にゆるされるより、自分にゆるされる方がずっと難しい事だった」と。
確執と和解。でも決してヤワなお涙頂戴ではない。なんたって佐野洋子なのだから、毒の量もハンパじゃない。生きていくっていうことは、もうそれ自体が、破裂寸前の矛盾や不安の塊を抱えて歩いていくことで、私たちにできることと言ったら、ただひたすらに、そのことを続けていくしかない、そこから逃れることはできない、ということがじんじんと伝わってくる。
■2008.5.29

あー、すごい本を読んだな、と思った。いくつか目にしたレビューでは、「日常生活が軽妙に」と書かれてあったが、それは違う。確かに読んでいる間に、何回も笑った。でも普通のおもしろおかしいエッセイを読んで笑うのと全然違うのだ。どこが違うのかっていうと、何て言うか、中心部分にずっしりと大きなものがあるのだ、その重しがあるから、私たちは、心おきなく自在にはじけて笑うことができるのだ。その何か「大きなもの」の存在を見落としてはいけないのである。
「役にたたない日々」(朝日新聞出版)。佐野洋子の最新エッセイ。佐野洋子の最近のエッセイは、鬼気迫るほどに爽快なのだが、この一冊はさらに群を抜いている。だって、この人、もうすぐ死ぬんである。
骨にガンが再発して、ガン研に行く。担当医(阿部寛の膝から下をちょん切ったようないい男、という表現が笑える)と「あと何年?」「ホスピス入れて2年」「いくらかかる?」「1千万」「わかりました。抗ガン剤も延命もやめてなるべく普通の生活ができるようにしてください」「了解」という会話をかわしたあと、病院帰りの足でジャガーの代理店に行って1台お買い上げするのである。年金がないから90まで生きたらどうしようと貯金していたけれど、もうその必要がなくなったから、なのである。
そこからこの本の終わりまでの4ページくらいの文章は、私が今まで読んできた文章のなかでも格別美しい文章のひとつであると思った。佐野洋子が死んだら、100万回死んだ猫みたいに、わあわあ泣こうと思った。
■2008.5.20

中原昌也「映画の頭脳破壊」(文藝春秋)。
しかし、まあ、みなさん楽しそうにおしゃべりしている。観てない映画の話も多いのだが、そんなことは関係ない。ゲストみんなが心地よさげに、楽しげに話しているのは、中原昌也の人柄のおかげか、編集のおかげか。
帯の文句に「究極の饗宴」とか「濃密な応酬」とかあるが、それはちょっと違うと思う。楽天的な映画礼賛にすぎない(駄作への非難や無視を含めて)。しかし、だからこそ、同じく帯にある「映画批評の新世紀はここから始まる」という言葉が正しく立ち上がるのだ。小説についても、みんながこんなふうにおしゃべりすればいいのにと思う。話題が文学になると、ここに登場するような人たちでさえ、ちょっとしかめっ面になる。なぜなんだろう。
80520 ■2008.5.12

江國香織「がらくた」(新潮社)
登場人物たちの考えは、かなり理屈っぽい。なのに、それを読んでいるこちらにとって、刺激されるのは理屈ではなく感覚の部分だ。感覚を刺激されるというのは、それが気持ちよくても痛くても、結構楽しかったりするのだが、この小説では妙にぞわぞわと気持ち悪い。いや、これはほめ言葉なのだ。一見居心地がよさそうでいて、でも実は、わずかながら、それでいて救いようもなく傷んでしまっている存在感のようなものを、とてもうまく描いている。
次に思ったのは、江國香織は、つくづく、恋愛に興味があるのだな、ということ。恋愛に、というより、恋愛をしている人間に、というべきか。恋愛をしている人は、みずからすすんで相反する感情や不条理のなかに身を投げ出したりする変な生き物、つまり、化けものに近いからかもしれない。でも、恋愛以外のシチュエーションでも、人間は化けものになる。江國香織には、いつの日か、恋愛以外の原因で化けものになった人間のことを書いてもらいたいと思う。
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80520 ■2008.5.5

ひさしぶりにミステリ小説を読む時間というものを堪能した。「夏草の記憶」(文春文庫)。
1962年に、アラバマ州の小さな田舎町でおこった事件。限られたエリアの限られた登場人物、そして、犠牲になったのが若く魅力的な女性であることから、私はツイン・ピークスを思い出した。でもこの小説でもっと大切なのは、1962年という年代と、南部という舞台。物語の最初から最後まで低く鳴っているベース音は、人種差別の問題なのだ。
文庫本で400ページ以上の長い物語の間じゅう、その語りの軸がぴくりとも揺らがないのがさすが。物語のトーンは暗いが、初恋のせつなさや、学園ものの甘酸っぱさが絶妙に配合してある。
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■2008.5.1

書店に行くと、演劇関係の人の小説がよく目につくのだが、どれから手を出してよいのかわからず、ただ何となく、この一冊。岡田利規「わたしたちに許された特別な時間の終わり」(新潮社)。
小説というものに何の疑いも持たない脳天気な昨今の小説に比べたら、なんとまあ、ちゃんとした小説であることか。語り手がずるずると移動していったり、内面との距離のとりかたをきちんと計算した独白など、きっちりと誠実に自覚的で実験的で挑戦的。願わくば小説家を名乗る人たちにも、最低これくらいのことはしていただきたい。
決して読んで損したとは思わないのだが、しかし、読み終わったあとに何かしらこう爽快感に欠けるのはなぜなのだろうか。小説なるものをここまできちんと突き詰めたあと、次に何があるのか、というのがちっとも見えないからかもしれない。行けるところまでぐいぐい行っても、なおかつまだ遠くへ行きたい、行けるかも、と思わせてくれるのが、私にとっての小説の楽しみなのだが。