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朗読者たち
小説のなかに描かれる朗読の場面は、長く心に残ります。物語を読み上げるその声を確かに聞き、言葉と言葉のすきまにかすかに漏れる息づかいを確かに感じたという気にさせられます。それは、小説家なら誰もが「物語を物語る」というその場面に最大の思いと細心の注意を込めるからなのでしょうか。それにしても、朗読という行為の秘める官能は、とらえようもなく魅惑的です。
僕は文章と、それを読み上げる自分の声と、
静かに聞いている京子との間に奇妙な一体感を覚えた。
もはや活字や、肉声や、僕と京子といった
個々のものが存在するのではなかった。
自分の声をまるで京子と一緒に
第三者的な立場で聞いているような錯覚にとらわれた。
僕らは二人で小説の中の快楽の世界を覗き込み、感動していた。
そして小説の文章はまるで目に見えない独立した生き物のように、
居間の空気を微かに震わせていた。
外国人留学生の主人公と、幼い頃から目が見えない京子。京都という古い街で、共に異邦人である二人は対面朗読をきっかけにして出会い、やがて愛し合うようになります。朗読の間、空間は、声としての命を得た物語で満たされます。物語を読む者と聞く者。ふたりは同じ世界を旅し、その体験を共有することで、特別の関係をつくってゆくのかもしれません。
「朗読」が巻き起こす騒動をコミカルに描いた「読書する女」。朗読を仕事にするという突飛な発想が引き起こす奇妙なできごと。さまざまな理由でさまざまな人たちが、彼女に仕事を頼んでくるのですが「本」そして「物語」が、人々の人生でどんなに多様な役割を担っているかに、思わずにやりとさせられる小説です。そこには、こりかたまった教養の権威も古典の正当性もありません。ただ、物語に翻弄され、朗読の魔力に踊らされる人の姿が生き生きと描かれています。
模範的朗読者とは、完全に中立で素直な楽器であるべきなのだ。
道具そのもの。透明そのもの。
それがおそらく限界でもある一方、偉大さもそこにある。
正真正銘の朗読のプロ、マリー=コンスタンス。物語の終わりの方での彼女のこの言葉は、人から物語への、さわやかな敗北宣言なのでしょう。
ぼくたちは、朗読し、シャワーを浴び、愛し合い、
寄り添って昼寝するという儀式を相変わらず続けていた。
ぼくは『戦争と平和』を、歴史や偉人、ロシア、
愛や結婚についてのトルストイの考察も省かずに朗読した。
(略)それまでに彼女に朗読した作品は、
すでにぼくが知っているものばかりだった。
しかし、『戦争と平和』を読むのはぼくにとっても初めてだった。
ぼくたちは遠い世界への旅行を一緒にしたわけだ。
15歳の少年と36歳の女性の恋。おぼれるような彼らの愛の行為のそばには、常に朗読がありました。女性の突然の失踪からしばらくたって、思いがけず女性の居所を知った主人公は、遠い場所でくらす彼女に、18年間にわたって朗読したテープを送り続けます。まだ人生の出発点にいた15歳のとき、主人公にとって朗読は、愛の官能と生への喜びそのものでした。しかし年月を経て、人生に疲れ、絶望をかいま見てしまった主人公にとっての朗読は幸福な日々への感傷でも、女性への愛情でさえもなく、残されたたったひとつの救済なのでした。
「物語」をどう生きるか、「物語」とどう決着をつけるか、そんな根源的な問いかけを「朗読」という行為は こんなにもあらわにしてしまう。だからこそ、物語を紡ぐ小説家も、それを受け取る読者もこんなにも「朗読」に魅入られてしまうのかもしれません。
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