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住むことを考える

「中野本町の家」
後藤暢子・後藤幸子・後藤文子+伊東豊雄
住まいの図書館出版局


  この本は、無数にある住宅についての本のなかでも、本当に稀有な本だと思う。建築家伊東豊雄がそのキャリアの初期につくった作品で、1970年代の傑作のひとつに数えられている住宅についての本だから、というのは、その理由のほんの一部にすぎない。また、このインタビューは家族が家の取り壊しを決めたときにおこなわれたものだが、当の建物がもうこの世にないから貴重なのでもない。この住宅「中野本町の家」の施主で20年間ここに住んだ家族のインタビューで語られることばひとつひとつが、たぐいまれな輝きを放っているからだ。
この住宅の施主、後藤暢子は、伊東豊雄の実の姉であった。30才後半に夫を病気で亡くしたあと、ふたりの幼い娘とともに新しい生活を築き始めるときに、いくつかの偶然や条件が重なって実現した家だった。夫を看取るという厳しく深い体験を経たあとに、弟に「どんな家を建てたいの?」と言われて明るいマイホームのイメージは湧かなかったと言う。インタビューで彼女は「言い過ぎかもしれませんが」と前置きしつつ「わたくし自身の内面がいくらか闇の状態になっていましたから、その闇を照らす光は、ほんわりとしたやわらかな光ではなく、鮮烈に射しこんでくるような光……、そういう光を、設計者よりも、まず施主のわたくしが、強く欲していたような気がします」と語る。
馬蹄形の形をしたその住まいは、普通の意味で言えば住みにくいところがいっぱいあった。娘は、小さい頃を振り返って、友達を家に招くのがいやだったと語る。しかしここにあるのは、快適かそうじゃないかという価値観を超えた、内面に直結した営みの証言なのだ。住みやすさや住みにくさをまるごと含めた、強い個性をもった空間としての住まいが、施主と建築家のどのような交感によって生まれるか、そして次には、施主の気持ちを家がどのように受け止め、そして施主の内面にどう影響を与えていくか。共鳴したり反発したりしながら、この家に住み続けている間ずっと、住まい手たちはそのことを考えてきたのだと思う。つまり、空間を通して自分自身を絶えず問い直してきたのだ。この本にある言葉は、どんな建築家のそれよりも、建築フリークのそれよりも、私たちの内面に作用してくるのだ。
「男と女の家」
宮脇檀 
新潮選書


 

宮脇檀は、体をはって住宅への問題提起をおこなった建築家だ。住宅は大規模建築より格が下だと言われ続けながら、住宅のために孤軍奮闘してきた。モデルハウスが理想の家だと頑固に信じ続けてきた日本人が、最近少しずつ自分の暮らしに合わせたデザインについて考えるようになったのは、この人の地道な努力がやっと実を結びつつあるのだとも思える。
宮脇にはたくさんの著作があって、どれもそれぞれの価値を持っていて、純粋に読んで楽しいものも多いが、私はこの本を選びたい。亡くなった直後に出されたということや、亡くなる3か月前の日付で自分の癌と出版の事情を冷静に簡潔に述べた序文を読むだけでも、この本のもつ特別な意味を察してもらえるだろうが、そういう理由だけからではない。性が家づくりにどうかかわってくるかというテーマ設定自体がユニークで、住まいについて高い意識を持たない一般の人にとってもわかりやすく、そして、刺激的だからであり、そういう点がこの建築家の個性をよく表しているように思えるからだ。
とくに日本において、一軒家というのはマイホームであり、「家庭」とほぼイコールで結ばれる。夫と妻、つまり一対の男と女を単位とした人間関係の場である。そのことがいちばんわかりやすい形で現れるのが、やはり、この本の最後に置かれた性の話なのだ。


 女だけの屈折した性がいろいろあったり、
 男の性は歌舞伎町にあったりするくせに、
 家の中で男と女が、男と女として向き合っていない。
 お父さん、お母さんとしてしか向き合っていない。
 これはやはりおかしいと思います。

宮脇檀は、このように言う。男と女が、きちんと自分に向きあい、きちんと相手と向きあう。このこと抜きに、住宅を考えることはできないのだ。
せっかくつくった書斎のほとんどが必ずと言っていいほど、やがて物置になってしまうのはなぜか、女はなぜ収納場所の広さにこだわるのかといった現象から日本人のメンタリティを浮き彫りにしてゆく論法は、説得力に満ち、彼一流の合理精神にあふれている。雑誌などによってねつ造されたイメージや空虚な情報、意味のない固定概念にしがみついてしまう私たちに宮脇檀は「暮らしに対する知性をもちなさい」と厳しくせまってくる。

「地球家族 世界30か国のふつうの暮らし」
マテリアルワールド・プロジェクト 近藤真理・杉山良男/訳
TOTO出版


  大判の写真集である本書は、世界30カ国それぞれの平均的な家族を選びだし、彼らの家の前に家財道具いっさいを並べて、家族と一緒に一枚の写真におさめるという、プロジェクトの集大成。ほとんど「なべかま」しか持たない家族、伝統的な工芸品を大事に生活のなかで受け継ぐ家族、たくさんの財産を持つ家族。日本の家族が登場するページには、見慣れたたくさんの家電や和風とも洋風ともつかない奇妙なものがあふれんばかりに並んでいて、ちょっと自己嫌悪を感じる。
それぞれの写真にまず感じられるのは、やはり経済格差だ。しかし、写真一枚一枚にある、何とも動かしがたい「その国らしさ」は、そのような単純な問題意識をうち砕く。制作者の姿勢も「物質の豊かさと精神の豊かさ」みたいな安直な対立概念を持ちだすことは決してせず、「もの」を通してみる暮らしをそのまま提出している。私たちは、その無数の細部(たとえば敷いてある絨毯の柄や、壁に飾ってある絵や、食器の材質や、テレビの型式など)から、彼らの文化、宗教、風土、民族性などを、いくらでも読みとることができるだろう。
それに何より、ふだんの私たちが考える「暮らし」のイメージが、地球的に見ればどれほど狭くかたよっていて、硬直したものかを思い知らされる。人間というのは、ほんとに地球上のいろんなところに住んで、いろんなものを食べてる、稀有な生物なのだ。
この本には、こんな言葉がある。

 人類はこれまで常に自分自身から脱出してきた。
 子供たちを連れて、世界の空地にむかってきた。
 だが、今では、これらの場所にも人が住み、
 人類は自分自身にむかうしか選択の余地がない。
 未来への責任はどこにも回避できないのだ。

これに続くシリーズとして同じ出版社から「続地球家族 世界20カ国の女性の暮らし」や「地球の食卓」もある。
「タンポポ・ハウスのできるまで」
藤森照信
朝日文庫(表紙写真は単行本)


  「建築家の」とか「建築史家の」と言うより、「路上観察学会の」という説明が、いちばんわかりやすい著者の藤森照信。ユーモアを愛する、いや、ユーモアを実践する藤森の語りは、文句なしにおもしろい。
この本は、屋根にタンポポの植わった自邸「タンポポ・ハウス」を設計し、工事に立ち会い、そして住み始めた一連の顛末について、あれこれ語られている。
今は建築家としての仕事も多数している藤森だが、本来は建築史が専門だった。ところが、生まれ育った家の近所だったからという理由で「大学の卒業設計以来製図板の前に座ったこともない」のに、神長官守矢史料館の設計を引き受けることになった。そのあたりから話が始まり、その次の作品である「タンポポ・ハウス」へと、どういうふうに問題意識を展開させていったかが語られるのである。
タンポポ・ハウスの設計は、「自然素材路線をやりすぎよう」「目に見えるところから工業製品を追放しよう」という決意のもとにおこなわれた。
あとがきのなかで、できあがった家を見た建築家仲間の伊東豊雄が「藤森さんの建築は素人の建築なんです」と言い、石山修武が「オマエのやってることはガーデニングだぜ」と言ったというエピソードが誇らしげに明かされているが、確かに、写真から見ると、無骨で素朴な建物なのである。
同じくあとがきには「もし二一世紀になって建築に重大な意味があるとしたら、このだれでもできる常識の延長という一点にかかっているんじゃあるまいか」と書かれている。建築は建築家たちが言うほど高尚でも知的でもなく、縄文時代の人でもできたし、いまの普通の人にもできる、と藤森は言う。
住むこと、自分の住む家をつくること。その原点を見据える視点は、藤森自身が言うように、これから先もっと重きを置かれるに違いない。その手仕事の感触を、門外漢の素人にいきいきと伝えているという点で、貴重な本だと思う。
「家ってなんだろう」
益子義弘
インデックス


  これは、「くうねるところにすむところ 子どもたちに伝えたい家の本」という10冊から成る絵本シリーズの最初の一冊として出された本だ。心身を育み、文化を形成する場としての「家」が失われつつあり、「家に守られ、家を守り、家とともに生きる」感覚が衰退していることが、子どもに大きな影を落としてはいないだろうか。そんな問題意識で、このシリーズはつくられたのだという。伊東豊雄、妹島和世、隈研吾、みかんぐみなど有名建築家が参加し、絵本の形をとりながらも、子どもにこびることなくていねいに作られている。
この本は、まず、1本の木から話が始まる。大きな木の下で憩い、木に守られ、木陰という限定された空間をつくる、そんな木の存在を家の原点に重ね合わせてみるのだ。もちろん、子どもの言葉で。
視点のユニークさも、説得力のあることばも、よいデザインのもたらしてくれる心地よさを体感させてくれる本のつくりも、文句のつけどころのないシリーズだと思う。ただ、子どもたちの心に蒔かれたこの小さな種が、10年後、20年後に本当に芽を出し、大きな木になるまで育つのか、やはり少々の疑いを持ってしまう。やはり自分の体で「心地よい」という体験をするのが最良の道だと思えてしまうからだろうか。
「沢田マンション物語」
古庄弘枝
情報センター出版局


  沢田マンションは、高知にある大きなマンションである。5階には大家さんである沢田家3世帯11人家族が住んでいる。屋上には田圃と畑と鶏小屋がある。
このマンションは1927年生まれの沢田嘉農さん夫妻で、なんと、ふたりだけの力で設計し、建築したのだ。嘉農さんは、小学校を出た年から製材所で働き、見よう見まねで家の建て方を覚えていった。大学の建築科なんかとはまったく無縁の、たたき上げの職人である。ただし、何でも自分で作ってしまう器用さや木材の質の見抜く力や発想の自由さ、そして、夢を現実にしてしまうエネルギッシュなところは、誰にも負けなかったのだ。1971年に建設が始められて、今なお、増改築が続けられているのだという。
この本には、沢田マンションのたくさんの写真やイラストが載せられている。きちっとデザインされたマンションとは違って、どこか雑然としている。でも、何と幸せそうな顔つきの建物だろうか。この建物のなかで、たくさんの人が思い思いに楽しく暮らしているのが伝わってくるのだ。この本では、ユニークな住人たちも何人か紹介されているが、みな、この風変わりなマンションを心から気に入っている様子だ。格安の家賃、礼金、更新料なし、改装自由。困っている人には寛大な大家だから夜逃げも多いという。でも、お金より大切なものの価値をよく知っているから気にしない。
沢田マンションは、沢田嘉農という破天荒な人物だけが作ることのできる、世界にひとつの特別なマンションだ。でも、住まいとは建物と住まい手と両方そろってこそ「住まい」なのであり、人を幸せにする建物こそがよい住まいなのだという当たり前のことを思い知らされる。
「住宅読本」
中村好文
新潮社


  大判でオールカラー、ハードカバーの豪華な本だけれど、重厚感や威圧感はなく、しっかりした骨組みの風通しのよい家のような心地よさがある。内容と装幀がよくマッチした本だと思う。建築家、中村好文の文章には、人をリラックスさせ柔軟な思考に誘うような魅力がある。
この建築家は、「いい住宅とは何か?」と、繰り返し問い直す。そしてその答えを「暮らしの内側」に見出そうとする。例えば台所については「美しく散乱する台所、あるいは多少の散乱ぐらいでへこたれない大らかな台所が、私の理想です」というふうに語る。つまり、料理には手際やタイミングがとても大切で、散らかったり汚れたりすることよりもおいしさを優先させることが、すなわち料理することなんだ、という。こういう考え方は、やはり、料理することを日常的におこない、おいしいものをおいしく食べることが好きな人でないと出てこないものなのだ。
有名な建築作品は自分の作品など、写真もたくさん収められているが、どれも生活の気配の感じられるものばかり。「あしながおじさん」で孤児院で育ったジュディ・アボットが友人の家に泊まって初めて普通の家庭を目にしたときにつづった「家」の描写と、また、山本周五郎の小説に登場する「たんばさん」という、貧しいながらもさっぱりと清潔で身の丈にあった生活をする老人の描写が引用されるまえがきは、建築についての本の冒頭に置かれるものとしては、ちょっと変わっていると言えるかもしれない。でも、この建築家のものの見方をよく表している、よい文章だと思う。
「建築家が建てた幸福な家」
松井晴子
エクスナレッジ


  本や雑誌に載っている建築作品は、完成品ではあるが、実は、ゴールではなくスタートだ。私たちは多くの建築作品を「知っている」が、そのほとんどは、写真を通して知っているのであり、それも、まだ人が使ったり住んだりしていない、まっさら状態の一瞬を「知っている」に過ぎない。生まれたての赤ちゃんの写真を見て、その人を「知っている」と言えるのかを考えればすぐわかるように、建築を知ること、建築を分かることのむずかしさ(だからこそのおもしろさ)は、素人の私たちにも容易に納得がいく。
この本は、建築家たちによる住宅建築で、築20年以上経たものを24軒紹介している。20年以上経つと、建物は当然古びたり汚れたりする。どの写真にも、いわゆる建築写真にはない雑然とした生活感がある。棚に並んだ本やCD、洗いざらしたテーブルクロス、壁の時計やカレンダー……。どんなにきれいに住んでも、人が生きて生活するということから「雑」を取り除くことはできない。
20年の間に、もっと大きく変化するのは住まい手のほうだ。施主はもちろん年をとるし、子どもが成長して独立したり、誰かが亡くなったりもする。これらの家々は、みんな、そんな家族の変化を受け止めてきた歴史を持っているのだ。
タイトルに「幸福な家」とあるが、それは、どの家も一様に家族から愛されているから。逆に言えば、それだけ愛されるに値するものが家にあったということだ。
この本からもっとも強く伝わってくるのは、住宅建築の価値というものは、教科書や理論のなかにあるのではなく、まず第一に、住む人の心のなかにあるのだということ。よい住まいにおいては、何年経っても、そこに住む者が日々その価値を発見していくのだ。これが大げさな表現でないことを、この本は証明する。
「遊牧民の建築術 ゲルのコスモロジー」
INAX


  「INAX BOOKLET」のなかの一冊で、1993年に発行されている。ゲルとは、木製の骨格とフェルトで作られるテントような、モンゴルの遊牧民の可動式住居である。移動するときはラクダ1頭が運べるというコンパクトさだが、住み心地はなかなか快適そうだし、見た目にもとても美しい。これは、ゲルについての100ページ弱の本だが、中味はなかなか濃い。ゲルの構造、どのような場所を選んでゲルを建てるのか、ゲルでの暮らしがどんなふうなのか、また、ゲルの歴史など、要点を得た説明に写真をイラストが豊富に添えられてわかりやすい、そして楽しい。
「住まい」というのを私たちが普通に考えると、それは、ある一点に固定されたもの、というのが大前提になる。でも、その大前提を取っ払ってしまうと、「住まい」の概念が根本から変わる。もちろん、移動式住居である固定された建築とに共通する要素も、逆に浮かび上がってくる。ゲルは、民族が古くから伝えてきた住まいの知恵の総体であり、私たちが建築をそのようなものとして見直す目を持つよう促してくれる存在でもある。
複数の執筆者による小論がまとめられているが、民族学者や建築学者などだけでなく、ダンゴムシなどの昆虫を移動する建築としてとらえてみたり、ティピーなどを含めモンゴロイドのテント文化がヒッピーに与えた影響、移動民の系譜をたどったり多様な書き手が参加。各テーマの深さから言えば、どの論も「ほんのさわり」程度ではあろうが、「ゲル」から自由に興味や思考を広げていく端緒を与えてくれる。