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「ことば」と「声」
本には「ことば」が書かれている。けれど、ひとつも「ことば」が書かれていない、と感じる本も多い。ただひたすら、この私を挑発してくれることばに出会いたくてページをめくっている時がある。
例えばレーモン・クノーの「文体練習」()は、ひとつの出来事を99の文体で表現するということをかろやかにやってのける挑戦的な書物だ。隠喩、倒置法、擬音語、過去形、未来形、そして、ていねいに、くだけて、乱暴に、客観的に、主観的に、などなどありふれたひとつ出来事が、まったく別の事柄に生まれ変わる。
しかしまずは、フランスで長く愛読されているこの原著をみごとな日本語に置き換えた翻訳者の力に、感謝しなくてはならないだろう。多くの翻訳家の嫉妬と羨望を集める仕事を成し遂げた訳者は、あとがきでこう記す。
表現やコミュニケーションの機能から解放された本書のことばは、
文学が夢見るユートピアの彼方から、
われわれが口にすることばに向かって
皮肉であたたかい眼差しを投げかけている。
「ことば」が大切。「ことば」は世界を変えるから。「ことば」によって世界が変わるその瞬間、血液がざわざわと泡だって、私は幸福になる。
「しゃべる詩 あそぶ詩 きこえる詩」()という本を開くとそんな瞬間が波のように絶え間なく訪れる。
けっくう けっくう/きゃ きゅ きょ、
と、これは与田準一。草野心平は
どうしてだろう。/うれしいんだのに。/
どうして。なんか。かなしいんだろ。/へんだな。
と、うたう。そしてまど・みちおは
なんにも わからん/わからんちゃんがいてね
と語りかける。
日本語の柔らかい肉体に触れるひととき。
このアンソロジーを編んだのは、「ことば」を「音」として楽しむことを実践している「ことばパフォーマー」波瀬満子。あとがきでは、こんなエピソードが紹介されている。
いつか子どもたちに「詩ってなんだか知ってる?」と
きいたことがあります。
「ハイッ」「ハイ」「ハイッ!」って元気に手があがって、
「1、2、3、4の〈4〉でーす」
「あそぶし、ねるしの〈し〉です」
「わたしの〈し〉」
「犬をおっぱらうとき、〈しっ、しっ〉っていいます」
「あかちゃんにおしっこさせるとき、おかあさんは
〈シー、シー〉っていいます」
わたしの頭の中の「詩」という文字と概念は、
このときみじんとなって飛び散り、
そうか〈ことば〉とは〈おと〉だったのだ、
と今さら目が覚める思いでした。
「ことば」の「音」だけに耳を澄まし続けている人物がここにもうひとりいる。竹内敏晴だ。「ことば」が「声」になる瞬間、「詩」が「歌」となる瞬間、それは、身体と心がちゃんと「生きる」瞬間なのだ。
深ぶかと息をすると、自分の存在感が変わる。
世界のまん中に自分が立っていると気づくと言ってもいいか。
自分がこの世に落ち着くのだ。
自分の声に出会うということは、
自分が自分であることの原点である。
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