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木よ。森よ。

「木」
幸田文 新潮文庫
(写真は単行本)


  この本は、幸田文が亡くなってから、足かけ14年にわたって雑誌『学燈』に発表された木に関する文章をまとめて、出版されたものである。木を見るための旅、というものを、晩年の幸田文はたびたびしている。屋久島の縄文杉だって見に行く。もっとも、山登りの最後のほうではガイドに負ぶわれてだが。ちょっとした文章を書こうと思ったら、それなりの場もたせ程度は十分できるはずの蓄積が、この作家にはあったはずだ。それなのに、自分の目で実際に確かめに行く手間を経てからそれを文字にしていくという、この好奇心の強さや真正直さが、幸田文の文章の質の高さを支えていたのだと、再認識させられる。最晩年には、崩れに興味を持ち日本各地の崩れを見て歩いたのだが、崩れに興味を持つ前後で、木に対する見方も変わってきており、そんな変化も興味深い。
この本の中で触れられているが、露伴は文が幼いころから木の葉をとってきて、名前をあてっこさせたり、身近な草木の話を聞かせたのだと言う。文が回想する露伴の話は、知識ばかりでなく、花の色や香りの良さを注意深く観察する心を教えていて、ものを見る、ものを知る、ものを感じる、というのはこういうことなんだな、と気づかされるし、また、このような教育を受けた文の心根のなかに、どんなにしっかりと植物の存在が根を張っているかを思わされるのである。
幸田文は木を、人との関わりとともに見る。日頃、その木の近くにいる人の話を聞き、そういう人にしか吐けない実感のこもった言葉を、しっかりと胸に刻む。木が生き、人が生きるということは、その土地、その大地のありようを無視しては語れないのだ。人の心というのもまた、土地や木や自然に養い耕されていくものなのだ。
「木に会う」
高田宏 新潮文庫
(写真は単行本)


  高田宏の名前を知ったきっかけは、書評で何度も名前を目にしたからだった。そのせいで、博覧強記、何でもござれの書評家、イコール、バリバリの引きこもり型書斎派のイメージを勝手に作りあげていたのだが、実は、森や木の本、雪の本、旅の本なども数多く、正真正銘の旅人タイプなのであった。でも正確に言えば、インドア派的要素とアウトドア派的要素が、ちっとも齟齬をきたさず、うまくブレンドされている具合が、このもの書きの真の魅力なのかもしれない。
この本には、そんな著者の個性が、とてもうまく表れている気がする。実際に出かけていって木に触れ、木を感じる様子と、小説や謡曲や古典文学や専門書などが縦横無尽に参照され引用されている様子が、ごく自然に溶け合っている。
けれど、やはり胸打つのは、冒頭の一章。山尾三省らとともに縄文杉の根本で一晩を過ごしたことをつづった文章だ。そこに流れる時間、私たちの時計では計りうることのできない時間に身をゆだね、老杉の声に一生懸命耳を傾ける姿から、素直で優しい人柄が伝わってくる。
無闇に木を神秘化することはしない。藤村の「人間は一生に二度ほど私達の方へ来る。一度は少年の時。今一度は年を取ってから」という言葉を引きながら、もう一度木の言葉を聴くための試みを続けたい、と述べる著者は、私たちが木の前で必ず持たなければならない「謙虚さ」というものを、教えてくれるような気がする。
「木 
なまえ・かたち・たくみ」

白洲正子
平凡社ライブラリー
(写真は単行本)


  檜、欅、松など、木をひとつずつ取り上げて、白洲正子が語ってゆく。おもに、それぞれの木が人々の暮らしとどうかかわってきたかを中心に述べられるので、木を身近に感じるのに打ってつけな一冊なのだ。決して軽々しい蘊蓄に走らない白洲正子の語りを聞いていると、木のありがたさ、木の美しさ、そして木の神秘性を肌で感じ、その気持ちを、いろいろな形で表現してきた古い日本の暮らしがひしひしと心に伝わってくる。とは言ってももちろん、林業がもっと盛んだったころの日本も、人々が自然に木に向かって手を合わせていた暮らしも、そして、黒田辰秋の作品を使いこなす生活をしている白洲正子も、本当は私たちのいまの暮らしの実態とはかけ離れたものなのだが。
それでも、白洲正子のきっぱりとした文章と、木は、なかなかお似合いなのである。
「樹海 夢、森に降りつむ」
高橋延清 
世界文化社


  すべての森は極盛相(きょくせいそう)に向かって進化している。極盛相というのは、針葉樹と広葉樹が混じり合って、生物も多く土壌も深い、完全にバランスのとれた状態のことを言う。人の目には止まっているように見えても、森は、何百年もかけて、その一点に向かっている。そして、森のエネルギーのポテンシャルがもっとも高まるのが、極盛相の一歩手前であり、このとき森は病害虫や天候の異変にも強い状態になっている。森を育てるというのは、この極盛相直前の状態へ早く育つよう人間が手を貸してやることであり、そのために最良な方法を見きわめるため、森林を「林分」という単位に分割して考える。これが「林分施業法」であり、森林学者、高橋延清を世界に知らしめた方法論なのだ。
と、このような説明はさておき、高橋延清は、そのユニークな人柄でも有名な人なのだ。長年東大の教授を務めたが、教壇に立ったことは一度もなく、北海道富良野の東大演習林で過ごした。世俗の権威から遠く離れて、ひたすら森の中を歩き回る姿から、「どろ亀さん」の愛称で親しまれ、退官後も精力的に森や緑を守る活動を続けた。
この本は、新聞や雑誌のために書かれたエッセイや詩を集めたものだが、飾り気のない言葉でつづられた文章から、暖かいものが伝わってくる。高橋は、「全部、森に教わったんだよ」と言うが、そこらへんのネイチャリストとは、言葉の重みがまったく違う。「森はひとつの宇宙」というのも、よく言われる言葉だが、この本を読んでいると、森がひとつの生命体、ひとりの人間のようにも感じられてくる。高橋は、完璧なバランスへと向かって少しずつ歩き続ける生命に思いをはせる。そして「結局、愛がなくちゃだめなんだ」なんて、言う。
「夜の森で、何も見えない真の闇の中で揺れる一枚の葉の気配を感じる、それを動かしているのは、風ではなくて「気」としかいいようのないものだ。そういうささやかなもの、ひそやかなものをこよなく愛する」。これは、白洲正子が高橋の言葉を紹介したもの。
白洲正子との楽しげな対談や身の回りのことをつづった文章もあり、高橋延清という人柄が本全体から伝わってくる本。森の多彩な表情をとらえた水越武の写真も多数収録。
「森のイングランド ロビン・フッドからチャタレー夫人まで」
川崎寿彦
平凡社ライブラリー


  著者はイギリス文学者であり、西洋庭園についての本を何冊か書いている。この本は、ロビン・フッド、シィクスピア、ワーズワース、チャタレー夫人など、イギリス文学をたどりながら、「森」とは人々にとってどういう存在だったかを考察する。
始まりは、こうだ。「森はヤーヌスである。それはつねに二つの顔をもつ。おそろしい顔と、恵みゆたかな顔と」。文明は、まず森を切り開くことによって作られてきた。そのときから森は人間にとって、いつ復讐してくるかも知れぬ恐ろしいものであり、同時に、身近にある恵みの源泉でもあり続けている。森は、ロビン・フッドらアウトローたちの住処であり、同時に、暗い混沌であり、素朴で原始的な感情をかきたる母なる原理であり……。
このように書くと学術書のようだが、とっても楽しく読める本なのだ。それは、文章が堅苦しくないからだけじゃなくて、論の進め方自体にちっとも無理がなくって、発想の開かれ方がとてもしなやかだからだと思う。当たり前のことだが、イギリスの森は私たちが知る日本の森とはまったく違っている。けれど、読み進むにつれて、文学と自然にたいする著者のおちついた思索のリズムとおだやかな感受性が伝わってきて、聖霊のすむような森の気配が、まるで親しいもののように心に満ちてくる。そして、本の最後、著者は地球上の森が危機にさらされていることへと、静かに筆を進める。それは、声高なエコロジストの主張よりも、重く響いてくる。
「はるにれ」
姉崎一馬/写真
福音館書店


  この絵本は、いわゆる写真絵本というジャンルでは最初に出会ったものだと思う。私が子どものころから、学校の図書館や、お医者さんの待合室や、お友達の家や、いつもどこかしらで見かける絵本だった。それほど親しい本だけれど、考えてみれば、これがにれの木であるという以外、どこにある木なのか、今もこんなふうにすっくと立っているのかさえ、私はこの木について何も知らないのだ。
文字のない、写真だけの絵本。この木は、どこか遠いおとぎの国か、もしくは、私の心の中に住んでいる木のようで、現実感がない。それは、この木があまりにも姿が良すぎて、フォトジェニックすぎるからかもしれない。緑の葉をいっぱいにつけて草原に立つときも、真っ白な雪景色のなかにいても、闇夜で月夜に照らされていても、まったく、ぴったりとさまになる木なのだ。
大人になった今は、この木の抽象性は、この絵本の比べるもののないほどの極上の美点でもあると同時に、欠点でもあるような気がしている。


「樹よ。 
屋久島の豊かないのち」

山下大明
小学館

  屋久島の木々をとらえた写真集。屋久島の写真集は数々あるけれど、私にとっては、これが基本であり永遠である。樹というもののもつ表情の多彩さに目をみはる。樹のなかには、自然や歴史や哲学や科学などすべてのものが詰まっていて、1本の樹は、それだけでひとつの宇宙なのだと思わされる。
「森の時間」
前登志夫
新潮社

  前登志夫は歌人。吉野生まれである。緑が放つむっとした匂い、黒く光った幹の手触り、踏みしめる土の湿り気など、森の気配が本全体から漂ってくる濃密なエッセイ。「樹木の小径を歩いていると、心身共に洗われて透明になるが、けだもののような感覚にもなる。けだものの感覚とはいかなるものかわかっているわけではないが、樹林にこもる全感情に感応するような状態もそのひとつだろう。
「木のいのち木のこころ(天)」
西岡常一
新潮社

  宮大工の棟梁として法隆寺や薬師寺などの修理、復興を果たした西岡氏の語り。木のこと、建物のこと、職人世界のこと、どの言葉も平明で明朗で、当たり前のことのように素直に心に響いてくる。
1本1本の木の生きたものとして扱い、それぞれのくせを見抜き、個性を最大限に生かすように使い、何百年先を見通すのが、宮大工の仕事だ。法隆寺に使われている檜は樹齢1300年ほどで伐られて、その後1300年、材として使われているという。その時間の流れにあらためて圧倒されてしまう。
この本は、シリーズ三部作のなかのひとつで、西岡氏の弟子である小川三夫氏への聞き書きが「木のいのち木のこころ(地)」、孫弟子たちへの聞き書きをまとめたものが「木のいのち木のこころ(人)」として出ている。
「木をかこう」
ブルーノ・ムナーリ 須賀敦子/訳
至光社

  イタリアのグラフィック・デザイナー、ブルーノ・ムナーリによる絵本。木の形を見ながら木の絵を描くことを通じて、「じっと見つめることの楽しさ」と「自然がつくる形の不思議さ」を教えてくれる。
「木の癒し」
ギーゼフ・プロイショフ 小川捷子/訳
飛鳥新社

  人間と木がどのような関わりをもってきたか、をホリスティックな視点から語る。いろいろな国、いろいろな民族の言い伝えやおとぎ話に登場する木々を訪ね、薬として、お茶として、どのように利用してきたかを紹介。後半にある木の事典では、木の種類ごとに、その利用法や効能が書かれていて、木の新しい見方を私たちに教えてくれる。