●1
「スロー・イズ・ビューティフル 
遅さとしての文化」辻信一
平凡社 1800円

●2
「ゾウの時間ネズミの時間 
サイズの生物学」本川達雄
中公新書 660円

●3
「モモ」ミヒャエル・エンデ
大島かおり/訳
岩波書店 1700円

●4
「時間と自己」木村敏
中公新書 660円

 
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私の生きる、この時間について



 いろいろな時間があり、たくさんの時間軸がある。
 それぞれの人生にはやはり一様でない時が流れており、
 時には淀み、時には急流のように速まる。
     辻信一「スロー・イズ・ビューティフル」(----●1)

ゆっくりは、美しい。
そんなタイトルのこの本は、一般の経済効率とか目的意識から外れた場所で生きようとする人々の声に耳を澄まそうとします。
「今はそれどころじゃない」という人々に、否定されてしまった「それ」は、いつ戻ってくるのか、「それ」を外されてしまった「今」は、一体何によって満たされるのか、と問いかけるのです。

時を刻む時計が後戻りできないように、時間は私たちの意志や感情と関係なく、厳然と流れていくと言いますが、本当にそうなのでしょうか?
「ゾウの時間ネズミの時間」(----●2)という本には哺乳類はどの動物も一生の間に20億回心臓が鼓動を打つ、だから、心臓の拍動を時計として考えるなら、ゾウもネズミも同じ長さの生を生きているのではないか、そんなことが書いてあります。

時間は普遍のものさしであるという考えを外してみると、世界は、思いがけず柔らかで豊かなものとして私たちの目の前に広がります。

 けれど、時間とはすなわち生活なのです。
 そして生活とは、人間の心の中にあるものなのです。
 人間が時間を節約すればするほど、生活はやせほそって、
 なくなってしまうのです。
          ミヒャエル・エンデ「モモ」(----●3)

時間泥棒から私たちを救ってくれたあの有名な少女モモ。物語のラストでモモは、必死の思いで灰色の男たちから逃れて盗まれていた、人々の「時間の花」を解き放ちます。無数の花々は春の嵐のように舞い上がり、そして、どこへ戻っていったか知っていますか? そう、「時間」は人々の心の中に戻っていったのです。

実際、「時間」というのは、哲学や物理学のなかで、いつも大きなテーマになってきました。それは、「時間」という問題が「私」という問題と直結しているから。「時間と自己」という本には、そのことが書いてあります。

 時間ということと自己ということが、
 本来切り離すことのできない一つの事態に属しているとするならば、
 自己が自己自身であるということの意味が
 その人の生きかたによって異なるのに従って、
 時間の意味も違ってくるのに違いない。
              木村敏「時間と自己」(----●4)

この「私」というのは、過去にそうであった私や、未来にこうありたい私を抱えながら、「いま」を生きています。
「時間」は「いま」と「いま」の間に広がる果てしない宇宙。私たちは、「いま」この瞬間から新しい「時間」を生きていくことができます。いいえ、もう生きてしまっているのかもしれません。新しい「いま」という、この時を。