●1
「小説作法」
スティーヴン・キング 
池央あき/訳
アーティストハウス 1600円

●2
「小説修業」
小島信夫・保坂和志 
朝日新聞社 1600円

●3
「ボルヘス、文学を語る 詩的なるものをめぐって」
ホルヘ・ルイス・ボルヘス 
鼓直/訳 岩波書店 1800円

 
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私は小説家である



どんな職業にも、才能と努力が必要である。
けれど、文学や芸術にかかわる職業は、別格で、神に選ばれた者だけがおこなう特別な生業だと言う人がいます。
そのような神格化を好む小説家もいれば、嫌う小説家もいるのですが、 例えば、スティーブン・キングはこう言いいます。

 境遇も意志も作家を育てるものではなく、
 与えられた条件はただ、持って生まれた素質だけである。
 それも、取り立てて特異な能力ではない。
 人はみな多かれ少なかれ作家、ないしは
 語り手の素質を具えている。
 これは発展に向かう能力であり、磨けば光る才能である。
        スティーブン・キング「小説作法」(----●1)

つまり、小説家になる可能性は、誰にでも等しく開かれているということです。でもこれは、誰でもが小説家になれるということを意味しません。
この本は、キングの物書きとしての生活をつづったものですが、ここに登場するのは、まぎれもなく、書くことが楽しくて楽しくてやめることのできないひとりの人間の姿であり、同時に書くこと、書き続けることを自らに厳しく課している人間の姿なのです。
そして、1999年に交通事故で大けがをしたキングは、人生の危機に直面した時、「書くこと」をよすがとして立ち上がろうとする自分自身を発見します。
私たちは、ここにこそまさに、小説家の特質を見てしまうのです。

小島信夫と保坂和志の往復書簡「小説修業」では、このふたりの小説家が、相手に向かって、そして自分に向かって「小説」を、「小説家であること」を、問いかけていきます。

 「何かを考える人間は哲学をやり、
 考えない人間が小説をやる」のではなくて、
 「論理的な記述をしながら考えるのが哲学者で、
 人間や風景を具体的に書きながら考えるのが
 小説家だ」ということです。
          小島信夫・保坂和志「小説修業」(----●2)

生きていくことと、考えることと、書くことをつなぎ合わせながら、そして、切り離しながら、深くやさしく思考を沈潜させ、言葉を積み重ねるふたり。そこにいるのは、やはりまぎれもない「小説家」なのです。

豊穣な文学世界を、その身ひとつで体現するかのような文学者、ボルヘス。あのボルヘスが、文学と言葉を前にして、とまどい、発見し、その官能の歓びにうち震えるさまは、やはりそれ自体が、もう文学だと言わざるをえません。

 事実、空白のページを前にするたびに私は、
 文学は自分で再発見していくもの、という気がしています。
 過去は何の役にも立ちません。
        ボルヘス「ボルヘス、文学を語る」(----●3)

そうです。小説家として生きなければ、小説家にはなれないのです。
「小説家として生きる」その事の前に、才能も、テクニックも、そして、もしかしたら運さえもが、ひざまずくのでしょう。
ただし、小説家として生きるということが、どういうことなのか誰もその答えを知ることはないのです。
人がなぜ生きるのか、その答えを知る人がいないのと同様に。