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子どもの時間
子どもは大人をただ「見ている」のだと思います。
ぼくもかつてそうでしたから。
大人の立派さを見ているわけでも、
批判しようと厳しく見ているわけでもなく、
ただそこにいるから見ているのです。
結果、大人のバリエーションを見ていることになるのだと思います。
ただ、今、大人のバリエーション、かなり少ないような気がします。
すぐ飽きてしまうぐらい少ない気がします。
これは、絵本作家である五味太郎の本「大人問題」の一節。
「大人問題」すなわち、大人は問題、もしくは、大人が問題、もしくは、大人の問題。世の中の子どもの問題というのは、すべからく大人の問題なのである。
五味太郎らしいユーモアとシニカルさに彩られているとはいえ、この本のどの章も、あまりにもまっとうな話なので、目がくらむほどだ。ようするに(という言い方自体が、大人的で問題なのだが)、自分の耳で聞き、自分の心で感じ、自分の声でしゃべれる大人があまりにも少ない、ということだ。
大人も社会もつかれてしまって、うんざりしてしまっている。だから、とにかく何でもいいから「決めて」しまう。
みんなが、そうしてるから。今まで、そうしてきたから。そういうふうに決まってるから。
こんな言い訳、今まさにゼロからスタートしようとしてる子どもにたいして失礼だよね、と五味太郎は言う。
教師は馬鹿の一つ覚えみたいに、
髪の乱れは心の乱れ、服装の乱れは心の乱れ、なんて言いますが
その「心の乱れ」がポイントです。
ぼくは、心は乱れるためにあると思います。
「乱れない心」なんて、心ではない。
乱れる心、のなんと豊かなことか。イヤだ、という言葉のなんと自由なことか。
子どもには「孤独」が必要なのだ、と説く本がある。「子どもが孤独(ひとり)でいる時間(とき)」。
著者はクエーカー教徒で平和運動にたずさわっている女性。この人は、「子ども」をきちんと見ていると思う。
Solitude――独り居。
なんと美しいことばではありませんか?
もしわたしたちが無礼にも、
子どもからひとりでいる機会を奪い取ってしまったら
子どもたちは、内に秘めている宝や、外で得る経験を
どうやって活かすことができるでしょう?
自分を熟成させていく時間、それが「孤独」なのだ。人はひとりでいる時間を持つことによってはじめて、「自分」に出会うことができる。人は孤独のなかでこそ生きる力を養っていくのだ。大人も、子どもも、変わりなく。
また、A・A・ミルンも、「くまのプーさん」に先だって書かれた短編集「こどもの情景」のなかで、子どもの世界を繊細に描く。まるで、蛇口からしたたるしずくが、はじける寸前にめいっぱい体をふくらませてプルプルとその身を震わせるみたいに、子どもの世界では、空想や感情のみっちりと詰まったひとつひとつのことばがはじけて飛ぶ。それは、おとなの言葉とは、まったく違った、魔法のことばの世界なのだ。
「おとなが使ってることばなんて、みーんな的はずれなんだから」
ちっちゃなウォーターローは、
二度と帰っていくことのできない幸福の国の、うっとりするような、
引きこまれるような記憶につつまれて横たわっていた。
いつか、それをことばにして話せるようになるかもしれない‥‥
でも、いまじゃない‥‥とにかくいまでは‥‥
小さなため息をついて、彼女は眠ってしまった。
そして、もうひとつ、私たちは、「星の王子さま」にある、あの有名な一節を思い出さずにはいられない。
おとなは、だれも、はじめは子どもだった。
(しかし、そのことを忘れずにいるおとなは、いくらもいない。)
今、私たちは、また子どもに戻れるだろうか。あんなふうに、まっすぐに世界を見ていたころに。あんなふうに、ごく普通に正しくて、幸せだったころに。
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