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「狂人日記」
ゴーゴリ 吉川宏人/訳
講談社文芸文庫
「我々はみなゴーゴリの『外套』から出てきたのだ」とは、ドストエフスキーの言葉だという。そう言われて、この「狂人日記」を読めば、これこそ、世の中に存在するすべての「狂人日記」の祖先、いや、もしかしたら、すべての「日記」の祖先のように思えてくる。
この日記の書き手は、下級役人。長官の令嬢に恋をして、意識がくるくる、くるくると空回りを始め、迷走のあげく、花火のような勢いで上空高くのぼり、暗闇のなかに壮大で華やかな絵を描く。一気に狂気のきわみまで連れていかれてしまう、ジェットコースター小説。
主人公の狂気は悲惨には違いないが、読んでいて、心が躍ってくるのを隠しきれない。ここに描かれた、実体のない思いこみ、荒唐無稽な妄想は、熱い血と力強い筋肉をもった肉体のようにリアルだ。このリアルさは、私たちに力を与える。笑いさえも、与えてくれる。
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「阿Q正伝・狂人日記 他十二篇」
魯迅/作 竹内好/訳
岩波文庫 460円
周りの人間たちは人を食うやつらで、自分ももうすぐ食われるのではないかという恐怖と闘う男。
人を食うのがおれの兄貴だ。
おれは人間を食う人間の弟だ。
おれ自身が食われしまっても、
おれは依然として人間を食う人間の弟だ。
しかし、この恐怖は、すぐに二重の意味を持つ。つまり、自分が食われるのではないかという恐怖と、自分が人を食うのではないかという恐怖。人間を食いたいという欲望の餌食になるのではないかという恐怖と、自分がその欲望に負けてしまうのではないかという恐怖。
この、真っ向から対立する恐怖が同時に存在するところが、この物語の怖ろしさだ。そして、これは、人間が生きていく限り必然的に抱え込まざるを得ない矛盾と不条理を暗示している。
自分では人を食おうと思いながら、
また他の者から食われることをおそれるのだ、
誰もがひどく疑いぶかい眼を光らして、顔をのぞきあう。
相手を陥れろ。考えるな。黙っていろ。そうすれば、他人の肉を食べて肥え太ることができる。それが、食人の世界のルールなのだ。魯迅によるこの作品の描かれた背景を考えれば、中国封建社会の諷刺と読みとるのが正しいのかもしれない。
この小説の最後は、せめて子どもを救いたい、という叫びで終わっている。どんなに暗い時代においても、子ども達に未来へ希望を託そうとする魯迅の悲痛な思いが込められているのかもしれない。
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「狂人日記」
色川武大
講談社学芸文庫 1300円
精神を病んで入院した男の日記。食事、検査、眠り、夢、見舞客、幻聴などのことが綴られる。この男の最大の苦しみは、正気と狂気の世界を行き来することである。狂気と正気の間を漂う。漂うしかすべのない、そのことの苦しみ。
ある日、医師に尋ねてみる。「わたしはどのように生きたらよいのか」。医師は男に、こう提案する。漂うことはもうやめて、病人として生きていけば楽になるのではないか。でも、男は、その言葉に腹を立ててしまう。「つまり、生き方を簡略化しろとおっしゃるんですね」。
鋭敏な感覚の世界は、もはや苦しみでしかないが、かと言って、それを脱ぎ捨てることは、自分の生の感覚も死の感覚も捨て去ることなのである。生きていくしかない、生きざるを得ない、そのことの痛み苦しみを、徹底的に追いかける稀有な小説である。この小説を支えているのは、もちろん、色川武大の、痛さを感じずには生きられない弱い者への共感、シンパシーである。
この小説が生まれるきっかけとなったのは、長く幻聴や幻覚に苦しめられ病院生活を余儀なくされたある男性が、生前ひそかに書き溜めた絵を見たことだという(ただし、モデル小説ではないと作者は言い切っている)。その時のショックは、あとがきでこう書かれている。「‥‥他人に見せるためでなく、まったくのモノローグの作業なのだが、にもかかわらず、言葉にしにくい自己を造形の世界で誰かに伝えたい意志が溢れているところが、ただ病人の絵とちがう。彼の絵には、人間の影がまったく無い。孤絶の深さ、静けさ、その底に含まれる優しさ、私としては他人の作品に思えぬものがあった」。福武書店からのオリジナル単行本では、この人の絵が表紙に使われていた。
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