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D T P の 周 辺 か ら


私が編集の仕事を始めたのは15年ほど前のことになるが、その頃、編集者の分類の仕方のひとつとして、活版の時代を知る世代と知らない世代という分け方があった。しかし最近は、この「活版」を「電算写植」に置き換えなくてはいけないだろう。「電算写植」にとって変わろうとしているのは、もちろん「DTP」による組版。新しいものごとが一般に浸透していく時の、お決まりのコースなのだろうが、「DTP」という言葉もまた、すべての難題を一挙に解決してくれる魔法の呪文のように唱えられた最初期から始まり、嫌悪、反発という洗礼を受けながらも、便利さや経済性をキャッチフレーズに従えて、気がつくと私たちのすぐそばまで入り込んでいる。「Desktop
Publishing」というこの言葉の本来の定義からすれば誤用なのだが、現在の本づくりの現場で「DTP」というと、写植を介さずパソコン上でレイアウトの作業をすることを実質的には意味している。
さて、言うまでもないことだが、本づくりに携わる者たちには暗黙のうちに本が本として機能するための、ベーシックな了解が共有されている。本の機能とは、例えば本の厚さやページのめくりやすさといったことから始まる無数の要素が含まれるわけだが、読者に何をどう伝えるかが主眼であろう。もちろんその定義にはあらゆる逸脱の可能性が含まれており、ここには「意匠」という問題が深くかかわってくる。
組版に関して言えば、本のページのなかに文章をどう置くかについて、活版の時代から引き継がれた土台となるべきさまざまな技や規範があり、ブックデザイナーはそれを自らの「意匠」と掛け合わせて、ページの設計をしていく。人間が読みやすい文字の大きさや行の長さというのは、一定の幅をもって了解されており、ここを起点として、ページ全体にたいする余白の取り方、書体や級数、行間の設定などの基本要素から、句読点の入れ方や和文中の欧文の処理の仕方など、場合に応じたさまざまなレベルでの設計が組み立てられていくわけである。
しかしDTPの普及は、そのようなスタンダードな了解を無視した本、組版が生まれやすい状況を作りだした。それが「本」という顔をして書店に並べられていることに唖然とするような本に出会うこともしばしばである。かと言って私はそれを、DTPの出現によって、プロフェッショナルが不在でも本を作ることが可能になったという事実の単なる裏返しだとは思わない。ハード的な環境や組版ソフトのシステムに、その原因を見出すことももちろん可能であり、具体的に思い当たることも多々ある。しかし私にはこの事態は、私たちが「本」や「ことば」もしくは「仕事」というものをどのように扱ってきたかという事実が、DTPによってたまたま露呈したと捉えるのが正しいのではないかという気がしてならない。
ある人たちは「DTPの文字組はきたない。だからDTPなんてダメなんだ」と訳知り顔で言う。しかしこれは、「フォーマットにテキストを流し込めば瞬時に文字が組める」というDTPにしつこくつきまとう幻想が裏切られたということであり、悪いのは裏切った方ではなく、むしろ、そんな幻想を信じた側だろう。考えてもみてほしい。情熱や緊張感や誠意や熟練といったものなしに成立する「美」などあるだろうか。その組版が美しくないのは、それがDTPだからなのではなく、その組版にとって必要なだけの愛情が注がれていない、ただそれだけの理由によるものではないか。
もちろんこれは、組版ソフトの改良などテクノロジー的な洗練が不必要だという話ではない。活版や写植においては、ハード的な制約が結果的にある秩序という枠組みの維持に貢献しており、DTPにはそれがないから無節操さに拍車をかけているのも事実であり、また、出版流通や、編集者・組版オペレーターの育成といった、構造的な問題も根深くある。
組版の乱れという問題に関しては、敬意を払うべき啓蒙的な活動をしているデザイナーやオペレーターも多数いる。しかし組版の問題をひたすら「美」の問題として捉えるならば、DTPの議論は、装幀や製本といったある種工芸的な領域へと発展させられねばならないだろう。失ってならないのは、組版の問題はまず第一に「ことば」の問題であるという視線であり、そのような視線によってのみ、DTPの問題は、例えば「出版されるに値する内容を持つ本とは何なのか」という、本質的な問題にまで深めていくことが可能だろう。
最近テレビを見ていて気づくのは、テロップに半角のカタカナが頻繁に登場することだ。ワープロによって突如登場した「半角のカタカナ」という存在は、私にはひたすら不気味なものにしか思えないが、世の中にはこれを不自然と感じない人が少なからずいるのだろう。もしかしたら半角の方が自然と感じている人もいるのかもしれない。このようにして私たちは、いとも簡単に言葉の変容に馴らされていく。今や私たちは何とも思わないが、日本語が初めて横に組まれたとき、「なんたる西洋かぶれ」と絶望的な気分になった人もきっといただろう。
文字が、言葉が、組版が、そして本が、今後どのように流れていくかは、わからない。しかし、私たちの思考が「ことば」からは決して自由になれないという現実を携えつつ、DTPの問題が「ことば」の問題であるという意識だけは持ち続けていきたいと思うのである。
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