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声 に 出 し て 読 み ま し
ょ う


一体いつから、大人が子どもに本を読んであげることを「読み聞かせ」と呼ぶようになったのだろう。この言葉の裏に見え隠れする思惑が、私にはとても不気味なものに思われてならない。「聞かせ」という表現に漂う押しつけがましさは、浅薄な教養主義とでも言おうか、疑いのなさゆえにもっとも罪深い、ある種の傲慢さを連想させる。大人が子どもよりすぐれた存在であるというのが大きな誤解であるように、本を読んであげる人が、読んでもらう人よりも優位に立つことは決してない。本の美徳は、すべての読み手にたいしてフェアであることだと私は思っている。
「読み聞かせ」が子どもの心を豊かにする、というのもよく聞くが、心を豊かにするための道具だと言ってしまっては、本にたいして少々失礼ではないか。第一、私やあなたが心配しなくたって、本なんか読まなくったって、心はすでに充分豊かなものなのだ。
それはさておき、ふつうは大人に向かって小説を読んであげる機会にくらべれば、子どもに絵本を読んであげる機会のほうが断然多く、そういうぜいたくを私も少なからず体験している。「読み聞かせのコツ」というようなお題目も世間には流布しているようだが、私は、「コツ」という生やさしいものではなくて「鉄則」とでも呼ぶべき、確固たるルールを自分の中に持っている。
子どもに絵本を読むときの鉄則は、ふたつ。ひとつ目は「自分の好きな本を読む」ということ。声に出して読んだときにおもしろくない本は、読まない。「何を読んであげたらよいのでしょうか(すなわち、どの本を読んであげれば心が豊かになるのでしょうか、という質問なのだろう)」と読み聞かせのプロなる人に相談する母親も多いそうだが、私なら、迷わず「あなたの好きな本を」と答える。読む人が好きでもない本を「読み聞かさ」れるほうの身にもなってほしい。
もちろん「この本、読んで」と相手から指定されたときは、話は別だ。私にとってそれは神の声と同じだから、断る根拠は必然的に放棄される。本との新しい邂逅を与えられた身としては、ただひたすらに受け入れるのみだ。ただし10回以上読んで、やっぱり好きではない、という結論を得たときにのみ、「うーんと、えっと、今日は別の本にしない?」と相手と交渉する権利を与えられる。
それから鉄則のふたつ目は、「とびらも読む」ということだ。とびらというのは、表紙をめくったあと、物語が始まる前の1ページ。たいていは、物語のタイトルだけが書いてある。とびらは文字通り、物語の世界へと続く大切なドア。そこに書いてあるタイトルは、とびらを静かに開けるための鍵のようなもの。だから、とびらを読まずにいきなり物語に入るのは、よその家に入るのに、ノックもせず鍵をこじあけて入るのと同じくらい不作法なことだと思う。本を読んであげることによって、心を豊かにしてあげようと思うほど私は子どもにたいして親切ではないが、人生に必要な最低限のマナーを示してあげる程度のわきまえは持ち合わせていたいと考えるのである。
相手が子どもでも大人でも、誰かに本を読んであげるというのは、このうえなく楽しい体験だ。自分の発した声が、何倍にも豊かになって自分の耳に返ってくるのが、はっきりとわかる。何度でも声に出して読みたいと思える本は、読むたびに、まったく違った響きをもって私に応えてくれる。本の持つ、そのような誠実さが好きだ。私自身が愛することによってのみ、その喜びを誰かと分かち合えるという公正さも、大好きだ。
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